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海に流した仔猫

1970年代、ゆういちの少年期シリーズ

お婆ちゃんの口から驚きの言葉が出た。
「信子!うんせえ ながせっきい」

脳性麻痺で生まれた信子おばさんは、僕のお母ちゃんと同じくらいの年齢だけど結婚もせず、お爺ちゃん、お婆ちゃんと三人で暮らしている。
少し前まで高校生ぐらいのお姉さんだと思っていたので、なぜ学校に行かないのだろうと不思議に思っていたけれど、聞いたわけではないのになんとなく障がいを持つひとだということがわかってきた。
難聴なのでいつも補聴器のキーキーする共鳴音が鳴り、好き勝手にそれを外しているわけではないけれど、お婆ちゃんからよく小言を言われている。でも、いつもニコニコして、お婆ちゃんから叱られても厭な顔ひとつせず不満を表す態度もとらないので皆から愛されている。
僕たちは信子”おばさん”とは呼ばずに信子さんと呼んでいる。

それは、たまたま僕の家族がお婆ちゃんの家に遊びに来たときの出来事だった。
仔猫が生まれたといって、信子さんがニコニコしながら段ボール箱に入った仔猫三匹を見せてくれた。弟と僕が箱を覗き込んでからは、真顔になるのが絶望的な状態だ。
鏡で自分たちを見たら満面の笑みになっていたはず。三毛、白黒柄、茶色、不思議と兄弟の色が違うけど、ちゃんとした兄弟には間違いはないのだろう。
この家のタマが生んだ仔猫たちで、すぐに親子を離されている。
それほど猫と接する機会がない僕たちは、今日の弟との遊びの計画はすべて白紙にして仔猫の世話をすることを勝手に決めた。帰ってからやらなければならない宿題や小学五年生ドリルの日課も吹き飛んでいる。ミーミーと誰にでも甘えたいというように、鳴く声が僕たちの愛情を求めている。

ところが、お婆ちゃんは一匹一匹、見定めてから、三匹の中から三毛をつまみ上げた。
毎日、たくさんの猫の仕分け作業をやっているかのように手慣れていた。そして、お婆ちゃんは三毛だけ残し、残りの二匹を海に流して来いと信子さんに言いつけたのだ。

その言葉を聞いた時、当然ながら海で溺れる仔猫たちの姿が頭を過った。
それは、この家のしきたりのようなもので、仔猫が生れる度にそうしているのだろうか。
他に選択肢が無いから。

信子さんはタマを可愛がり、猫が大好きだということは知っている。
でも、お婆ちゃんの言うことには逆らわなかった。

拒否や怒りの気持ちが沸いてきているのか表情ではまったく読み取れない。
すべてをお婆ちゃんから操られているように、信子さんはすぐに二匹の仔猫が入った段ボール箱を前にかかえて海へ向かった。

僕は気がついた時には、弟といっしょになって信子さんの後を追っていた。
あの段ボール箱が舟かと思えば漂流は長くはないとわかる。
いつも笑顔が絶えない信子さんはこの時ばかりは、意識して顔を見せないようにしているのか、表情をうかがうことはできなかった。

海までは歩いて二、三分。
鬱蒼とした雑木林に守られた家から、海岸まで続く雑木林の中のケモノ道のような小道を進んだ。肌がかぶれてしまう櫨<ハゼ>の木を避けることも忘れて。
信子さんの履いた白い長靴は海に向けて足を運ぶ度に悲鳴のように鳴った。
明るく開けると、そこは花崗岩の丸い奇岩で埋め尽くされた海岸だ。今日ばかりは、海ではなく一面緑の草原だったらどんなにうれしいことかと思ったが、残念ながら波が奇岩を洗い潮騒が僕らを呼んでいた。
ここは錦江湾、対岸は薩摩半島、トンネルの終わりには必ず光があるように、いつもの薩摩富士が姿を現していた。普通に考えても仔猫たちは対岸に辿り着くわけがない。
信子さんは重い気持ちとは対照的に、軽やかに丸い奇岩を足場にジグザグに伝って波打ち際へ向かって止まった。僕たちは舟が見えないように信子さんの背中に周り、その様子だけをうかがい知るだけにした。
お婆ちゃんが「うんせえ ながせっきい」と言ったのは、仔猫を海に捨てて来いと言えなかったのか、少しでも長く生き延びることを願って小舟に乗せて流してきなさいと言ったのか?
あわよくば少しでも生き延びるように。

信子さんは、振り向きざまに物悲しく微笑んでこれから流すと合図した。その仔猫の乗った舟が潮に浸かると信子さんは堰を切ったように大声をあげて泣き出した。

仔猫が一匹で生まれてきたら、どれほどよかったものか。
僕の視界から錦江湾の美しいキラキラが滲んでしまったのと同時に、ひとりで息を切らし、仔猫の鳴き声と潮の香から逃げるように雑木林に走りこんだ。

誰の目にもふれず雑木林の中でひとり激しく泣いた。

✒✒✒

あとがき
天国のバーちゃん、あの海での出来事から半世紀だよ。
いまだにあの記憶は脳裏に焼き付いて褪せることなく、動物の殺処分の話を聞くと心がひどく痛むよ。キリキリって・・・
あなたは、戦争体験者だったし当時の世相もそうさせたのかもしれないよね。
あの日のこと、いまだったら暴露してもいいよね、と言ってももう書いちゃったよ。
時効だしね。
どんなに残酷なことであるかということ、
後世にメッセージを残せたと思うよ。

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