私が「人材紹介会社のウラ側」をお伝えしていきたい理由について。前編
こんにちは。斉藤亜瑚です。
noteで「キャリアについて」「転職について」書き始めて、記事の数も80を超えてきました。今日は改めてきちんと自己紹介をさせていただきたいと思います。
都内の私立文系大学を卒業し、私が最初に勤めたのは大手総合電機メーカーの携帯電話を作る会社でした。当時は転職の「て」も考えたことがなく、会社を辞めるのは「寿退職」(古っ)くらいだろうと思っていました。
周りの同期も似たようなもの。地元では「●●●に勤めたら一生安泰」という雰囲気でした。実際、地元の小・中・高と進学し、一度も県外に出たことがない。という同期もたくさんいたと記憶しています。
中には、「会社の仕事が自分には合わない」と悩み、「やっぱり美容師になりたい」と転職していく人もいましたが、そういう「自分がやりたいこと」にフォーカスして転職していく事例は本当に少なかったです。
会社の中で与えられた役割を果たし、主任⇒係長⇒課長⇒部長とステップアップしていくことこそが唯一の「キャリアアップ」だと考えていました。大げさでもなく朝から晩まで仕事をしていて、タクシーで帰宅することもしばしば。たまに定時で帰宅すると、母が「どうしたの?具合でも悪いの?」と心配するような日常でした。あの頃流行ったドラマ・音楽、記憶にほとんどありません。でも、ちょうど携帯電話という製品の黎明期の頃の入社で、月間の出荷台数が3万台、30万台、300万台と、どんどん拡大していく時期にモノづくりに携われたことは、今でも私の貴重な財産です。
転機が訪れたのは、結婚する(かもしれない)人と生活するために上京する決心をしたとき。ありがたいことに、半年間も引き留められ(時代ですね…)当時の上司に「会社を辞めることはいつでもできる。何とか継続して勤務できる環境が整えられないか考えよう。」とまで言っていただきましたが、生活拠点があまりに遠く、退職。入社して10年目のことでした。
結婚後、「残業や責任のないお気楽OL」を一度経験してみたかった私は、学生時代の同級生が働いていたPasonaに登録し、派遣社員として別の大手総合電機メーカーで働き始めました。そこで任されたのは『構造改革』という名のリストラで全国各地の工場で働いていた40代、50代にWordやExcelを教えることでした。何年も工場ラインで働いてきた人材を、営業職に配置転換するための再教育です。キーボードなど触ったことがない彼らの慣れない手つきに胸が痛みました。
が!!
数か月後その私たち派遣社員も『構造改革』として全員雇い止めになることに。派遣社員になってほんの1年半しか経っていませんでした。全然お気楽OLなんかじゃなかった。
ここで初めて、今後の自分の『キャリア』について真剣に考えることになります。当時すでに30代。これからどんどん年を取っていくにつれ、就職は難しくなる。同じ事務作業をする女性ならば、より若い人を採用するのが世の常です。
年齢が武器になる仕事ってないんだろうか?
そう考えた私は、「キャリアアドバイザー」という資格に興味を持ちます。資格取得の目処が立つ頃から、「私のような、仕事を探したい人の手助けをしたい」という気持ちと、「『雇用の調整弁』になってしまう派遣社員を取り扱いたくない」という気持ちから、人材紹介会社への就職活動を始めました。
30代半ばに差し掛かっていた私に内定を出してくれたのは2社だけでした。
今だからわかります。
人材紹介会社は、「私のような困っている人の手助けをしたい」という気持ちで入社してくる30代なんか、要らないのです。(極論ですけど真理です)
「数字」に対する達成意欲が強く、ガツガツ・ゴリゴリ「売りますよ!」という気迫がある人。すでに営業先を持っていて、「こことの太いパイプがあるので、入社したらバンバンこの会社に人材を紹介できますよ!」という即戦力が欲しいのです。
そう思うと、内定を出してくれた2社はなんとも奇特な会社で、感謝しかないです。その節は、どうもありがとうございました。
2社のうち、私が入社を決めたのは、IT業界特化の人材紹介会社でした。
理由は、「IT業界のことを全然知らないから」
全然知らない人材紹介業×全然知らないIT業界 どうせ全然知らないことなら二つともこの際一気に経験してみよう。という何とも無鉄砲な決断でした。
中編・後編に続きます!
齋藤亜瑚
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