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専門家不在のコーポレートガバナンスの狂宴 ─『BAD BLOOD』を読んで─

バイオベンチャーの管理部門で臨床検査業界に8年間ほど関わっていました。時期を同じくして、アメリカで画期的な臨床検査手法を開発したとされ、ユニコーン企業と冠されるまでに注目を集めたセラノス。その不正について詳細に取材し、2018年にアメリカで刊行された本書の日本語訳が出版されるのを私はずっと待っていました。

セラノスの不正事件に関心を持っていた人は日本にはそう多くはなかったかもしれません。簡単な事の顛末は、amazonの本書紹介や以下のウィキペディアのページをご覧ください。


臨床検査の現場を見てきた私には本書の内容は興味津々で、大変面白く読むことができました。本を読む手が止まらなくなったのは久し振りです。コーポレートガバナンスという観点から見ても十分に面白いのですが、それ以外に、私がこの本に惹き込まれた理由は主に以下の3つです。

1.新規の臨床検査の開発~実用化の過程を見てきたから
2.管理部門の立場で臨床検査の業務フローを経験したから
3.上記1と2を知っている人と知らない人の認識のズレを体感したから

このnoteでは、コーポレートガバナンスの視点を絡めつつ、主に3.についての私の考えを述べていきます。

セラノスの不正には元国務長官や大物政治家、軍司令官、ベテランベンチャーキャピタリストなど、百戦錬磨のはずの人たちも騙されています。しかし、ヘルスケア専門のVCなどは1社も投資しておらず、取締役会には血液検査の知識を持つ人物もいませんでした。つまり本書を読む限り、メディカルの分野において、その知見がなければたとえどんな優秀な人でも判断を誤る危険性があることを示しています。


事業化までの行程

「●●大学が■■ということを発見した。●●大学はこれを△△の治療に活かせると考えており、実用化に向けて研究を進める」という見出しが新聞に載ることがあります。メディカル研究の分野を多少見てきた人とそうでない人とでは、その後の展開が創造する場合、かなり相違があるのではないでしょうか。

私が勤めていたバイオベンチャーの中で、私は唯一の文系社員で、社内には医学や理工学、薬学などの博士号持ちがゴロゴロいるような職場環境でした。私には当然バイオメディカルの知識はなく、入社してから生化学などの専門家達の中でのカルチャーギャップを感じる日々でした。

そんな私の場合、バイオベンチャーに入る前は、前述のようなニュースを聞くと、その研究結果が医療現場で使われ、多くの人が笑顔になる様が頭に浮かびました。実際に病気で苦しむ家族を持った経験のある人は、より希望と夢を持ってそのニュースを受け止めることでしょう。ビジネス的に興味のある人は、疾病によってはマーケットが大きいので、スケールする事業など別の夢が見えるかもしれません。

しかし、実際に発見された科学的事実と実用化・事業化するまでの間には、長く険しい道のりがあります。私の拙い知識ではありますが、大まかな道程の一例を以下に挙げてみます。

①試験管による研究→論文掲載→資金調達
②ラット等動物による研究→論文掲載→資金調達
③ヒトによる臨床試験→論文掲載→資金調達
④事業化するためにサービス生産体制の構築→上市


前述の「●●大学が■■ということを発見した。●●大学はこれを△△の治療に活かせると考えており、実用化に向けて研究を進める」が①~③のいずれに当てはまるかによって、事業化までの困難の度合いはかなり違ってきます。

まだ①の段階の場合、研究フェーズ毎に良い研究成果を得て、それが資金調達に繋がらなければ、資金が枯渇して次のフェーズには行けません。いわゆる「死の谷」と言われるものです。

論文掲載においても、『BAD BLOOD』に出てくるような、お金を払いさえすればどんな論文でも掲載されるのではなく、査読付きで、できれば国際的に信頼される学術雑誌が望ましいです。

また、④のサービス生産体制の構築においても、様々な課題が発生します。事業化には提供するサービスや製品について、その質や生産量の安定化は重要な問題です。しかし、研究に使っていた機器がかなり特殊で、サービス提供においてその質・量を安定的に行うことが無理だということが後で判明したり、原価が過剰にかかるなどして、結局事業化を断念した、なんてこともあります。


事業化のリスクに対する認識の相違

バイオメディカルの世界を多少なりとも知っていれば、上記①~④のその技術の事業化までのリスクを鑑みて、投資をするか否かを判断することができます。バイオベンチャーはそもそも千三つと言われるハイリスク・ハイリターンな世界なので、損して元々というエンジェル投資家もいます(ルパード・マードックもその類だったのかも)。

しかし、事業化までのリスクの数々を知らない場合、病気の克服や巨大マーケットという壮大な夢を先に見てしまい、それに目が眩んで判断が誤りやすくなってしまうのかもしれません。(実際に①~③をうまくボカして投資家や企業から資金集めしていた研究者もいたりいなかったり...)

SaasやPRAにあまり詳しくない方は、「それらを導入すれば全部自動化されるんでしょ? 素人でも対応できるのでは?」と誤解してしまい、実務をされる方が困ることがあるという話をよく聞きます。それらの導入や運用現場を知らない人ほど、進歩するIT技術によって何でも手軽になるという過度な信頼や期待があるように思います。

バイオ技術に関しても同じような盲信があるのかもしれません。特にこの業界に関わっていない人にとって、積極的に情報を集めない限り、その新規技術を事業化するまでの具体的な苦難を知る機会がほとんどありません。


専門家不在のコーポレートガバナンス

MOT(技術経営)という言葉があります。科学技術を経営資源と捉え、研究成果を新しい事業などに結び付け、企業価値を高めていく経営スタイルです。欧米では科学的バックボーンのある方がさらにMBAを取得し、科学的専門性と経営者としての両面を持ちつつ起業することが日本よりも盛んに行われています。

こういう土壌があるにも関わらず、セラノスの取締役にはバイオメディカルに関する専門家がいませんでした。結果論かもしれませんが、この時点で”推して知るべし”の状態だったと言えます。

日本でも社外取締役などを選任する際は、その専門性が問われます。企業の社会に対する責任において財務報告の信頼性とコンプライアンスは外せない点ですので、公認会計士や弁護士が社外取締役の列に名を連ねることが多いのは、これらを担保する為です。

事業の分野によって必要となる専門家の種類も様々でしょうが、もし経営陣にその専門家がいないのであれば、専門家の知見を取り入れる体制を作るよう強く求めることも社外取締役や監査役の責任だと思います。


最後に

企業がある程度の規模になり、曲がりなりにも外部から資本を受け入れるような状態になるのであれば、素人だけで経営することがないよう社内外から健全なプレッシャーがかかる。「ベンチャー企業だから」を言い訳にしない、そんな企業こそが羽ばたくよう願っています。

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