死んだかと思ったら、貧乏なのにお金の優先順位が下がった自分に生まれ変わった話

僕の脳内はお金のことでいっぱいいっぱいだった。
そこにおっぱいが入り込む余地はない。あのおっぱいでさえもだ。
しかし今はどうだろうか?
開始2行で数少ない読者を離脱させることも厭わないほど、心に余裕ができている。カモン、おっぱい。
ほら、こんな風にね。

※この話は死をテーマにした体験ベースの気付きエッセイです。

死んだかと思ったできごと

僕は今、夜勤の倉庫バイトと焼肉バイトを掛け持ちし、隙間を縫うように奇跡的に受注できたWEBデザインの仕事をしている。
控えめに言って地獄なのだが、これで家族が食っていけてるので、すべての仕事に感謝を忘れないように気をつけている。

そんな生活を続けていると当然のように体にボロが出てくる。
なので「早く脱却しなければ長くは生きられないなぁ」と思いながらも、ただ現状にしがみつく毎日を生きるのに精一杯だった。

先日の焼肉のアルバイトが終わった23時過ぎだった。
その日は、前日にフルタイムでWEBデザインの仕事をした後に夜勤に出て、朝に帰ってきたあと仮眠して焼肉バイト、というスケジュールだった。

週に2日はこのようなスケジュールをこなしていて、いつもは焼肉バイト後もそれなりに元気なのだが、その日は体調が優れなかった。
終盤は立っているのもしんどくなるほど体が重く、なんとか仕事を終わらせたという感じだった。

終わった後は秒で着替えてコワーキングに向かうのが通例だ。
しかし、その日はお腹の調子も悪く、コワーキングのトイレまで我慢できないと判断した僕は、バイト先のトイレを借りることにした。

お客さんが使うトイレではなく、従業員専用の汚くて小さいトイレだ。
バイト先の若い社員であるN君が、いつも先輩社員に怒られた時にひっそり泣く用のトイレでもある。

トイレは洋式で良かったのだが、相も変わらず狭くて汚なかった。
だが便意には勝てない。
その日の便意はすごく情熱的だったのだ。
いつもは肛門の奥に引っ込んで必要なときにしか顔を見せない引っ込み思案の便意が、その時ばかりは前のめりで僕にアピールをしてきていた。
もはやウンコより先に便意が出てしまうのではないかと心配になるほどだ。

僕はズボンとパンツをいっぺんにおろして、座ると同時にすぐ力んだ。

その瞬間。

ガーンガンガン!

と波打つ激しい頭痛。

その後、すぐに眩暈が同時に襲ってきた。

(あ、やばい。死ぬかも)

そう思った。

さっきまで普通に話をしていた人が急に亡くなる。
そういうパターンを見たり聞いたりしたことがあるだろう。
僕の場合、現実に同級生がそうやって亡くなったし、テレビやネットの記事でも突然死にまつわる情報に何度も触れていた。

ただ、情報に触れては漠然と「怖いな」とは思うだけで、すぐに脳内からその情報は排出されていた。
なぜなら、自分には関係のないこと、と思っていたからだ。

その突然死が、あの瞬間に「関係ない」ことではなくなってしまった。

激しい頭痛は最初の一回きりだった。
幸いなことに、僕は倒れることなく意識を保ったままでいられた。

しばらくじっとしていると、頭は少しズキズキするくらいの頭痛になっていた。睡眠不足で無理をすると、よく軽い頭痛くらいにはなっていたので、いつも通りの痛みに戻り安心した。

頭痛は治まったが便意は治らなかったので、そのまま便座に腰掛けながらスマホで頭痛について調べた。

突然死関連を検索して、最初の方にヒットする頭痛は「バットで殴られたような痛み」だった。
くも膜下出血などの症状でよく聞いたことあるフレーズだ。

そして先程の自分の頭痛と比べてみた。

(⋯⋯⋯⋯?)

比べようとして、すぐに僕はこう思った。

(いや、バットで殴られたことねぇわ⋯⋯)

先ほどまで頭痛でうなされていた脳とは思えないほど冷静だった。

よく考えると、代表的な痛みの一般表現がバットで殴られたような痛みって、どうなの?
日本医療の1番偉い人は元不良なんだろうか?
それとも僕以外の日本人は基本的にバットで殴られ済みなんだろうか?

ぶっちゃけ「いや、ニュアンスでわかるじゃん」と思うのも理解できる。
僕だって今まではニュアンスで理解していた。
「なるほど、バットで殴られたくらいの衝撃なのね」と。

それがいざ自分ごとになるとどうだろうか?

しかも、本当に死ぬかもという不安が心の中を埋め尽くしていて、今の頭痛って大丈夫だよな?ってドキドキしているときに、「バットで殴られたような痛みだったか?」と問われてみて欲しい。

答えはそう。

「バットで殴られたことないからわからない」

になるはずだ。

で、とりあえず間違いないのは、そんなこと考える余裕があるなら大丈夫だろ、ってことだ。

僕はひとしきりネット記事にツッコんだあとに、アナルにトイレットペーパーごと指をツッコんで綺麗に拭き取ってからトイレを出た。

アナルのウンコは残らず拭き取ったが、僕の心のアナルにはまだ不安が残っていた。
振り返ってみれば大したことない、ちょっと疲れが出ただけの話だったかもしれない。
しかし、あの瞬間は間違いなく、死を間近に感じた。
それは間違いなかった。

死んだかと思ったあとに変わった価値観

帰り道。
僕は「もしかしたら、明日死ぬ可能性だってあるのか⋯⋯」と、ぼんやりと死について考えていた。

その後に出てきたのは「自分は何がしたいのだろうか?」だった。
ただ、「自分のやりたいこと」と向き合うことなんて、死なんか関係なしに、今までも腐るほどやってきた。

そして、いつものパターンだと、

  1. やりたいことリストを作る

  2. そのやりたいことをやるには”お金”と”時間”が必要だ

  3. ”お金”と”時間”を手にするにはもっとがんばるしかない

  4. そのためには〇〇をしなければならなくて、××もしなければならない。ゴールから逆算すると、来月までには△△の状態になっていなければ!

という風に自分を苦しめるルールを作ったことに満足して、達成できずに言い訳をすることを繰り返していた。

今までと明らかに違ったのは、

「明日死ぬかもしれないなら、今の満足度を高めたい」

という考えが主軸になったことだった。

こうなったことで、やりたいことリストの内容は激変した。

だって

「お金がある未来を前提として考えたやりたいこと」は考えるだけ無駄だと思ったのだ。

まぁ、お金ないことはどう転んでも変わらないわけだから、お金ないまま楽しむしかないじゃん。という不貞腐れもあったかもしれない。

あと面白いと思ったのは、その上で長期的な目標も捨てていなかったことだ。

なんか、今までにないすごい不思議な感覚だった。

明日死ぬかもしれないけど、そう簡単には死なないだろうから、できるだけ今を楽しみながら楽しい未来を目指そうぜ。

言葉にまとめるとこんな感じだろうか。

いや、それどこの所ジョージですか?

所さんがそんなことを言っていたのかは分からないけど、所さんくらい最強メンタルな気がした。

死んだかと思ったあとにやること

勝手に死を擬似体験して、所ジョージになった僕がこれからやることはなんだろうか?

いや、やること自体は変わらなかった。
今まで通りにバイトして家庭を維持してWEB制作の実績をゆっくり積み上げるだけ。

でも、「〇〇ヶ月後にこうなる」というような中期目標は自分には合わないと思ったので全部取っ払った。

その時のメモ書きから少し抜粋すると、

  • やった方がいいことはたくさんあるけど、やれない日があっても全然いいか。

  • 「〜しなきゃいけない」なんてルールは自分が作ってただけか。

  • ちょっと節約して、バイト休める日作ってもいいかもな。

  • どうせなら節約も楽しんでみるか。

  • もう全部受け入れる。ジタバタしねぇ(→なんかONE PIECEのあのエースのセリフを思い出してた)

と、こんな風に肩の力が抜けたような言葉がいくつも書かれていた。

ちなみに、やりたいことリストの最初の方にnoteの執筆と書いたので、今noteを書いている。

書いていて思ったのは、「やっぱnote最高!」「noteと心中ウェイ!」という気持ちではない。
上手く言語化できない時は「ぬわーーっっ!!」てなるし。
noteツラ⋯⋯って、すぐなる。

でも、「別にそうなってもいいか」と思ってパソコンから離れる。

そして、時間が経つとなんかnoteの奴が気になる。

そんな気になるアイツみたいな存在が僕の中のnote。

死んだかと思ったあとに気をつけたいこと

今の僕は調子に乗って「肩の力が抜けた俺最強。もうなんでもこい」みたいに書いているが、気をつけないと、どうせまた元のメンタルに戻ってしまうだろう。

人間はそう簡単に変わることはできない。

今はかろうじてまだ所ジョージだけど、この所ジョージは仮初めの所ジョージに過ぎないのだ。

だから僕は、この気持ちを忘れないように、また思い出せるようにしておくことが大事だと思っている。

そのためにも、こうやってnoteに書くことは意味があるのかもしれない。
これからも、気が向いたら書き残していこう。

以上です。

死んだかと思ったら、仮初めの所ジョージに生まれ変わった話でした。


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