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「成長」と言う言葉に、意思を奪われる

 「成長」という言葉。

一見すべての人がそうあるべきで、目指すべきものだと思うけれど、それを強制された時、それができなければ[生きる価値なし]となってしまいかねないと考えます。

 成長できないものは、生きる価値なし。

こんなメッセージがあちこちで様々な言葉の影に隠れているように感じます。


 「自由」に選択してほしい、と言う人がいるけれど、その言葉の中に「成長」という言葉が隠れていて、「成長」一択の場合が少なくように感じます。
その「自由」という言葉に含まれているのは、「成長」できる状態で「自由」に選択してよい、というように聞こえてしまいます。

 ぼくも、成長しようとすることは大切だと思うし、必要なことだと思います。
だけど、「成長」一択となってしまった時に歪みは生まれてしまうだろと思います。

 「成長」という誰も否定できない強力な言葉の前に、選択する意思を奪われてしまうのではないかと懸念します。

前だけを見て進み続けることだけではなくて、後ろを振り返り上手くいったことや失敗したことなど、自分について考えてみても良いのではないかと考えます。

つまり何が言いたいかと言うと、時には「退行」も必要じゃないかなと。

「退行」して何かに気づいてしまったら、これから進む道の見え方が大きく変わるだろうと思うからです。

 もしかしたら、それは「自由」な選択となりえるかもしれません。

 未知との遭遇は、あなたの人生に大きな喜びを運んでくれるかもしれません。


 最後までお読みいただいて、ありがとうございました。

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