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生命科学分野におけるキャリア形成の一事例:前編

成川 礼
東京都立大学大学院理学研究科生命科学専攻

はじめに

このたび縁があって、私のキャリア形成の話を寄稿させていただくことになった。私は現在、東京都立大学にて准教授として研究と教育に携わっている。独立した研究室を運営する所謂PI(研究室主催者)という身分である。前任校である静岡大学でも講師として7年間、研究室を運営してきた。これまでに教員として3つの大学に所属し、それらの職を得るために合計50近くの教員公募に応募し、11回の人事面接を経験している。特に前任校と現任校で職を得るまでの道程はなかなかに険しいものであった。これらの経験を共有することで、少しでも皆さんの参考になれば幸いである。個別の事案毎に異なった事情があるので、こういう事例もあるのだな、という程度に受け取り、自らの参考になりそうなものを取り入れていただければ嬉しい。また、キャリア形成の傍らで、ライフイベントがどのように進行していったのかも合わせて紹介したい。キャリアの初期から順を追って記載した結果、かなり長い文章となってしまったが、お付き合いいただければと思う。

略歴紹介

まずは私の略歴紹介から始める。私は私立の中高一貫男子校を卒業後、東京大学教養学部理科二類に入学した。進路振り分けにて、駒場キャンパスの教養学部生命認知科学科に進学し、その後も駒場キャンパスに所属し続け、総合文化研究科広域科学専攻生命環境科学系にて、修士・博士課程を過ごした。博士号を取得した研究室にて1年間、学振研究員(PD)を務めた後に、その研究室の助教として採用いただき、助教として7年の間、研究と教育に従事した。そのため、大学入学から合計17年もの間、駒場に通い続けた計算になる(その当時で人生のほぼ半分!)。その後、静岡大学に講師として着任し、やはり7年の間、研究と教育に従事した。そして、この春、東京都立大学に准教授として異動し、今に至っている。この経歴だけを眺めると、順調なキャリアに映るかもしれないが、節目節目で苦難に直面することも多かった。この後、ステージ毎に、その時の状況などを記載していきたいが、年度毎のキャリアイベントとライフイベントに論文出版・予算獲得状況を加えた年表を作成したので、これを参照しながら読み進めると、当時の状況を理解しやすくなると思う(図1)。

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図1. 著者のキャリアイベント・ライフイベントの年表

学生・PD時代

私は進学振り分けで駒場に進学した。これについては、基本的に実学に興味がなかったため、薬学部、農学部、工学部などには触手が伸びず、理学部か教養学部の二択という状況であったが、理学部には点数が到底足らず、自然と教養学部へ、という経緯である。また、多細胞の複雑な体制をもつ生物では、例えば環境応答などにおいて、インプットからアウトプットまでの道程が長く、自分の頭でそれを考えて解釈するのは私には向かないと考え、微生物を対象とした研究に従事したいと考えていた。そこで、講義の内容も面白く、シアノバクテリアを研究材料としている大森正之教授の研究室に卒研生として所属することとした。しかしながら、博士に進学する際に、博士取得までに大森先生が定年退職してしまうということで、博士課程からは池内昌彦教授の下で研究を続けることにした。当時、大森先生と池内先生は研究室が隣で、ともにシアノバクテリアの環境応答に関する研究をしていたことから、セミナーも一緒に開催しており、研究室の移籍は非常に敷居が低いものであった。実質的には、研究テーマを持ち込んで、M2の春から研究室を移籍していた。DC1応募時には、共著論文はあったものの筆頭著者論文はなく、不採択であった。また、D1の春にも、未だ筆頭著者論文を出すことはできておらず、DC2への応募を断念した(指導教員となった今では、筆頭著者論文の有無にかかわらず、DCへの応募を指導学生には強く勧めているが・・・)。その後、D2の春にはようやく筆頭著者論文が受理され、DC2への応募に至った。この時期に、以前から交際していた妻と結婚するというライフイベントとして大きな事案があった。妻は私より一学年上で、修士修了後に就職していたため、経済的基盤を既に確立していた。また、両親も私への経済的支援を申し出てくれる状況であったので、収入が全くなく、学生の身分でありながら、このような選択を決断できたといえる。また、私は根が怠惰な人間であり、特に自分自身のことに対しては、目指すべき目標をあまり高くできない質であったことから、このまま独りでいるよりも、家族をもち、将来的に養う対象が生じ得る状況に自らを追い込むことが、私の人生を良い方向に向かわせるのではないか、とも考えていた。このような経緯で結婚することになったのだが、DC2応募の学内締切が5/14、挙式が5/15という日程組みとなってしまい、その春は二つの事案の準備に明け暮れることとなった。このような状況であったため、大学院の仲の良い同期たちからは、ダブルパラサイト、略してダブパラと揶揄されていたのだが、挙式直前に応募したDC2に幸いにも採択いただき、ダブパラも一年弱で脱却することができた。

その後、苦労はあったものの、何とか年限内に博士号を取得した。DC2をD3から取得していたため、博士号取得後1年間はPDとして研究室に在籍できることから、特に積極的に就職活動は行っておらず、博士号取得に専念することができた。PDの春には学振PDにも応募していたが、書類の段階で不採択であった。PD1年間の間には、2つの教員公募に応募した。1つは東京の私立大学で、シアノバクテリアも研究材料としている、よく知っている研究室の助手(今でいう助教)の公募で、もう1つは在籍していた研究室の助手の公募である。ちょうど在籍されていた助手の先生の任期満了のタイミングであった。前者は面接にも呼ばれず不採択であったが、後者には面接に呼ばれ採用に至った。年表を見てもらうと分かるが、この時点での研究業績は決して芳しいとはいえず、研究業績という観点では私よりも優れた応募者が多くいたと思われる。その上で、私の年齢や伸び代、研究室との相性などを総合的に評価いただいた上での結果だと捉えている。この公募に限らず、その後の公募でもいえることと思うが、前任校である静岡大学や現任校である東京都立大学での公募においても、やはり研究業績という観点では、私よりも優れた応募者もきっといただろうと思う。総合的に見て、応募元が想定する人物像に最も合致すると思われる人材が最終的に選ばれるのだろう。

東京大学での助教時代

前任者が3月以前に任期を迎えたため、なるべく早くということで、私は3/16という中途半端な時期に着任することとなった。2006年度までは職階として助教はなかったため、15日間だけ助手として雇用され、4/1より助教に切り替わった。私の雇用形態は、5年任期、審査によって2年延長可能というものであった。東京大学の教養学部は教養課程の教育負担がなかなか重く、私は教養課程の理系学生の生物実習を担当した。毎年、延べ1000人分以上の実習レポートを評価する日々であった。実習については、基本的に助教の教員のみで運営されていたため、大変ではあったものの、学びの多い日々であり、その後の教員キャリアにも大きく活かされていると感じる。

研究としては、博士課程での研究テーマではあまり発展性がないと感じており、学位を取得できそうだと感じたタイミングで、当時、研究室内で花開きつつあるテーマの方もやらせて欲しいと池内先生に掛け合った。自ら分子の探索を行い、対象とする分子の目処もつけていた。この申し出を池内先生が快く肯ってくれて、D3の2月にプライマーの注文をしたのを今でも鮮明に覚えている。このタイミングで着手したテーマに助教時代にはのめり込んだ。かなり順調に新規分子の同定と特徴づけをすることができて、この研究に着手してから2年強の2008年5月に、このテーマで最初の筆頭著者論文を出版することができた。この時期に、妻が双子を出産するというライフイベントとして二つ目の大きな事案があった。このライフイベントにおいては、順調とは言い難い経緯がある。結婚しても、私が学生の間は流石に子どもをもつという選択肢はなかった。私が学位取得後、妻の仕事も落ち着いた段階で、子作りを意識するようになったが、私たち夫婦が自然に妊娠できるかどうかを予め検査した方が良いと考え、早期の段階でそれぞれ検査を行うことにした。その結果、妻には問題はなかったのだが、私は正常精子の数が少なく、また、運動率も低いということで、自然に妊娠することは困難であろうという診断が下った。その後、私たち夫婦の考えに寄り添ってくれそうな医院を探し、すぐにそちらで治療を開始した。当時、不妊治療は保険対象外で、高額な治療費は経済的に大きな負担となった。また、タイミング治療から始めて、最終的には顕微受精という高度な治療にまで至り、一通りの不妊治療を体験した。一年近くの治療の末に、最終的に男女の双子を授かることができたのは幸いである。治療している間は、いつトンネルを抜けるのか分からず、暗闇を歩み続けなければならず、なかなかに苦難の道程である。ところで、少し話は逸れるが、男性側の不妊が原因での治療であっても、主にその治療対象は女性側になる(しかも多くの場合、筋肉注射を毎日行うなど、身体的・精神的苦痛を伴う)という著しい不均衡が、男性不妊の治療における困難さを生み出していると考えている。男性側としては、自身に問題があるにもかかわらず、女性側に負担をかけてしまうことから、治療に積極的に向き合うことができず、女性側としては、自らは問題ないにもかかわらず、痛みを伴う治療対象となり、かつ、男性側も協力的でない、という状況に不満を感じる事態に陥ってしまうことが多いのではないかと推察している。私自身は、そのような状況に対して、妻に申し訳ないなとは思いつつも、とはいえ、私自身がどうにかできる事象でもない、と割り切ることができる性格だったので、上述したような状況に陥ることはなかった。ともあれ、博士号取得後に着手した研究のアウトプットと双子の誕生という二つのイベントがこの時期に重なることとなった。

その後の数年間は、研究と教育と育児に追われる日々であった。その中で、2010年11月から2011年1月にかけて2ヶ月程度、ドイツのミュルハイム・アン・デア・ルールにあるマックスプランク研究所の共同研究先に短期滞在することとなった。短い期間ではあったものの、家族も連れての滞在となった。双子はまだ2歳であったため、当時の記憶は全く残っていないのは残念である。この年の冬は大雪のタイミングで、ベビーカーを押すこともできない積雪に見舞われることも多かった。色々と大変ではあったが、ビールやクリスマスマーケットを満喫することもできた。この時期は、研究としては停滞期といえる時期であった。2008年に出版した論文で対象としていた分子について結晶構造解析に成功し、その内容を満を持してPNAS誌に投稿したものの、残念ながらリジェクトされてしまった。ユニークな新規構造であるため、専門誌に投稿する形に路線変更するのは避けたいと考え、新しいデータを足すことで再挑戦するための道筋を探し、もがいていた時期である。ドイツでの滞在も、まさにその新データを得る実験をする目的だったものの、短いドイツ滞在では、上述の論文戦略に合致するデータを得ることはできなかった。しかしながら、滞在期間にベルリンやオランダの大学に赴き、さまざまな方々と共同研究ネットワークを構築することに成功し、帰国後もそのネットワークを維持することで、最終的に4報の共著論文を出版することができた。一方、リジェクトされた論文については、時に競争相手、時に共同研究先、時に良き相談相手であるアメリカの研究者の方から、当時、研究室の博士学生が決定していたもう一つの分子の構造と合体させることで、1つの論文としてまとめることができるのでは、と提案いただき、その戦略が功を奏して、2013年頭にようやくPNAS誌に共同筆頭原著論文として報告することができた。

ドイツからの帰国後の2011年6月に任期延長審査が行われ、無事、延長されることとなったが、もっと筆頭著者原著論文を出さないと、次の所属先に収まるのは難しいという指摘をいただいた。実際、審査前に4つほどの教員公募に応募していたが、どれも面接には呼ばれずに書類選考で落とされていた。この審査の後まもなくして、JSTのさきがけ課題に採択していただき、それ以降、公募の面接にも声がかかるようになった。論文業績だけでなく、規模の大きい予算の獲得実績も、大きく作用すると思われる。また、上述したように2013年頭にPNAS誌に共同筆頭原著論文が掲載され、さらに面接に声をかけていただける機会が増えたように感じる。しかし、面接には呼ばれるものの、なかなか最後の一人として声をかけていただくには至らなかった。合計6回目の面接でようやく最終候補者として選んでくれたのが前任校である静岡大学であった。一般的には、面接に呼ぶ候補者は3人程度が多いと聞く中で、6回目の面接まで最終候補になれなかったということは、私は面接でのアピールがあまり上手ではないということかもしれない、と当時はよく悩んでいたものである。私の場合、シアノバクテリアを研究材料としていることから、植物系の公募でも微生物系の公募でも出すことができ、また生理学的な研究だけでなく、生化学、生物物理学、応用利用系と分野横断的に研究を推進していたことから、生化学、生物物理学、生物工学などの領域の公募にも出すことができた。そのため、他の方々よりも公募に出す際の間口が広かったように思う。一方で、そのような狭い領域の公募においては、私のような分野横断的な研究を行っている者には、その領域の深い教育に従事できるという説得力に欠けていたのかもしれないと自己分析している。実際、この時に採用を決めていただいた静岡大学の公募も、昨年に採用を決めていただいた東京都立大学の公募も、生命科学全般の広い領域での人材募集であった。狭い領域での公募でも面接に声をかけていただいたことは何度かあったが、最終候補者になることはなかった。また、最終候補者に決めていただいた静岡大学の公募では、広い領域での募集であったため、180人弱の応募者があったと聞いている。このような状況では、研究業績が他に比べて抜きん出ることは難しく、総合的な評価において、訴求力のある実績が多いと強力なのだろうと思う。私は駒場での助教の経験から、教育実績をアピールできたのではないかと考えている。研究所の所属であったり、研究員としての雇用が長い場合には、そのような教育実績をアピールしづらいところがあるかもしれないが、非常勤講師の枠も結構多いので、そういう枠組みに積極的に手を挙げると良いように思う。

ところで、静岡大学に講師として2014年4月の着任が決まったのだが、本章の冒頭で述べたように、私は2007年3月16日という中途半端なタイミングで着任したため、2014年3月15日に任期が終了してしまい、15日間はさきがけの専任研究員として在籍するという対応となった。本来、国立大学から国立大学への移籍の場合、退職金は発生せず、勤続年数が積み上がる形になるのだが、この空白期間があるために、一度リセットされてしまった。色々と入り用ではあったので、退職金として一時金が入ることは嬉しい面もあったが、在籍期間が長いほど、退職金をより多くいただける仕組みなので、トータルとしては損する形となってしまった。


大学時代から、独立ポジションを静岡大学で得るまでの前編、いかがだったでしょうか?静岡大学でPIとして辣腕を振るわれた7年間から、再度公募戦線に参戦して東京都立大学准教授の職を得るまでの後編はこちらです!


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