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生命科学分野におけるキャリア形成の一事例:後編

成川 礼
東京都立大学大学院理学研究科生命科学専攻

前回のまとめとライフイベント年表

東大博士号取得からPDをへて東大助教7年を務めたキャリア形成前編はこちらです。

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静岡大学での講師時代

前章で述べたように、6回の面接の末に、静岡大学にPIとして職を得ることができたわけだが、家族が東京近郊を居住・就労の拠点としていたため、私としては単身赴任か遠距離の新幹線通勤のどちらかを選択するという状況であった。ちなみに、静岡大学の教員公募に応募するまでは全て、関東圏に限定して公募に出していたが、静岡大学が初めて、関東圏外の応募先であった。当初は単身赴任だろうと考えていたのだが、一応、通えるかどうかを調べてみたところ、新幹線を利用すれば、家から研究室までトータルで片道2時間25分程度ということで、必ずしも通えないわけではないな、と考えた次第である。また、国立大学の教員はみなし公務員という立場であるため、交通費支給の上限が公務員と同じ額で定められており、それ以上、私の場合、半額以上は自己負担という形であった。単身赴任にしたとしても、週末に帰宅することを想定すると、金銭的な負担としてはあまり変わらないという見通しとなった。そうであれば、家族との時間をより長く確保できる遠距離の新幹線通勤が最も良かろうという判断となった。新幹線通勤を継続できることを疑問視する方も多かったが、結果的にはまる7年、新幹線通勤を貫いた。最初の4-5年はほぼ9時前には研究室に着くようにしていた。最後の2-3年はワークライフバランスに鑑みて、週の半分くらいは9時前に、残りは10時前に研究室に来るように心がけていた。もともと学生時代や助教時代には、朝型では決してなく、むしろ夜型の人間であったのだが、静岡大学に着任してからは、朝型にしっかりと切り替えることができた。PIとして研究室を運営するという立場が人を変えたということであろう。経済的な負担はさておき、体力面や時間面でのデメリットはそこまで感じなかった。特に、片道1時間近く新幹線に乗っており、その時間は論文執筆や書類仕事に集中することができた。研究室にいると、電話がかかってきたり来客があったりラボメンバーとディスカッションしたり、どうしてもデスクワークにのみ集中することは困難であるが、新幹線車内では邪魔も入らず、快適な作業環境であった。おかげで静岡大学に異動してから論文執筆速度が格段に上がったと自負している(それまでが遅すぎたという説もあるが・・・)。

さて、研究面では、駒場での最終年の夏から新規で始めたプロジェクトから、その年度内に続々と萌芽が生じ、それらのテーマを全て静岡大学に持ち込むことができたため、テーマとしては、やるべきことに溢れていた。また、着任初年度はさきがけの最終年度であったのだが、さらに、若手Aにも採択いただけた。研究室立ち上げということで、入り用のタイミングであったので、本当にこれは恵まれていたと感じる。初年度は学生を受け入れられなかったのだが、上述のように予算に恵まれていたため、研究員を5月から雇用し、二人三脚で研究室の立ち上げと研究の推進に励んだ。2年目からは安定して学生配属があり、また、優秀な方が多く、非常に順調に研究が進んだ。着任してから3年目に初めて、最終・責任著者の原著論文を出すことができ、それ以降、毎年少なくとも1報以上の最終・責任著者原著論文を出すことができている。研究室立ち上げ当初はPIとしてやっていけるかどうか不安であったが、それも杞憂に終わり、やりたいテーマは増える一方であるし、研究費も何とか途切れることなく獲得できる形で進められた。また、途中から学内の附置研にも所属させていただき、そちらで一緒になった先生方との共同研究も盛んに行うことができて、論文にも繋がる成果となった。

教育面では、講師として講義よりも実習や演習を中心に担当した。准教授や教授の先生方と比べると負担が少なく、なるべく研究に専念できるように配慮いただいた。実習では、期間中になんとか学生全員の氏名を完全に覚えて、最終日には名簿を参照せずに出欠を取るというネタを披露していた。こういうネタを通して学生との距離を縮めて、より深い交流ができるようになったと思う。

このように静岡大学での教員生活は、研究面でも教育面でもとても充実しており、基本的に不満はほとんどなかった。しかしながら、私の中での誤算が1つあった。新幹線通勤の半額以上が自腹というのは経済的な負担が非常に大きいのだが、双子が成長するにつれて、教育コストも上がっていくということを想定していなかったということだ。双子は静岡大学着任2年目に小学校に入学したが、高学年になってくると経済的な負担が増してきて、厳しい状況となってきた。そこで、静岡大学着任して4-5年目くらいから公募戦線に復帰することを決意し、関東圏内限定で公募を探し始めた。とはいえ、静岡大学と同等かそれ以上の環境で研究できそうな機関に絞って応募することとした。公募を出し始めた時期には、既に最終・責任著者原著論文を複数出すことができていたので、PIとして今後もやっていける自負を持ちつつある状況であった。正直、そこまで苦労せずに関東圏内で教員職を得られると楽観視していたのだが、なかなかどうして苦労を重ねた。私自身としては縁を感じている大学や部局に応募しても、書類選考を通ることすらできない一方で、逆に強い縁を特に感じていない大学や部局から面接の声がかかることもあった。教員公募において採用側が求めている人物像はなかなか応募者側からは捉えづらいのかもしれない。苦労を重ねている中で、2019年と2020年にPNAS誌に最終・責任著者原著論文を出すことができ、それによって、さらに面接に声をかけてもらう機会が増えたように思う。責任著者としての一般誌への掲載は、訴求力が大きいのかもしれない。最終的に、4回目の面接にて現任校である東京都立大学に准教授として採用いただくことになった。こちらも、静岡大学の時と同様に180近い応募数であったということを耳にしている。双子は私の異動と同じタイミングで中学生になり、ますます教育コストが高まることが見込まれ、ギリギリのタイミングでなんとか経済的負担が大きい新幹線通勤から卒業できたといえる。

おわりに

冒頭で紹介した略歴は、それなりに順調なものに映ったかもしれないが、節目節目で苦難に相対していた。その上で、私はとても恵まれていたと思う。家族や指導教員の支援に恵まれ、また、ラボメンバーや共同研究者にも恵まれていた。さまざまな人たちに助けてもらったからこそ、今の私があり、PIとして研究室を運営できていると思っているので、今後は、後進の方々を支援したり指導したりすることで、正の連鎖を繋げていければと思う。このエッセイでは、教員公募書類の書き方などについては、特に言及しなかったが、下記のツイッターのツリーにて、私のこれまでの経験から得られた書き方のTipsをまとめている(https://twitter.com/rei_nari/status/1371778165522112513?s=20)。実際に公募戦線で奮闘している方々の参考になれば幸いである。さらに詳細を知りたい場合は、いつでもご連絡ください。応募時の実際の書類も共有できます。また、このエッセイと同様の内容をオンラインセミナーで話した様子が、YouTubeにアップされています(https://www.youtube.com/watch?v=QULGNkg_InA)。

こちらには、私の研究についての紹介もありますので、興味のある方はご覧ください。



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