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プランF: フランス大学院進学という選択肢

黒岩 杏佳

<著者略歴>
2020年 3月
 
 北海道大学農学部 卒業
2020年 9月 ~ 2021年 7月 
 Aix-Marseille Université, Master «Sciences et technologies de  l’agriculture, de l’alimentation
 et de l’environnement», Parcour type: BIOLOGIE ET BIOTECHNOLOGIES
 ENVIRONNEMENTALES 修士2年次編入
2021年 10月 ~ 2024年 9月(予定)
 Aix-Marseille Université, faculté de sciences
 INRAE (l’Institut national de recherche pour l’agriculture, l’alimentation et
 l’environnement、フランス国立農学研究所) Avignon 博士課程


フランス南部の街・アヴィニヨンにあるINRAEのラボで博士課程をしている黒岩杏佳と申します。
2020年3月に日本で学部を卒業したのち、同年9月にフランス・マルセイユの大学で修士2年に編入し、修了後、2021年秋に同じ大学の博士課程に進学しました。現在、課程1年目となります。所属ラボではゲノム編集を用いてウイルス抵抗性を示すトマトの作出の研究をしております。

『日本の学部卒業後に直接海外の修士課程に進学』×『進学先:フランス』というパターンは私自身ほとんどネットで見たことがなく、自分の体験がこれから海外進学を目指す方々の励みになればと思い、僭越ながらこのnote記事を書かせていただくことにしました。
進学先にフランスは100%ない!という方にも、海外進学の道筋の一つ(“短期留学で作ったコネクション経由”)として参考程度に読んでもらえたらよいかと思います。

海外大学院進学をすることになった経緯


私は中学2年から高校卒業まで4年弱の間、親の転勤に伴ってアメリカ・カリフォルニア州で過ごしました。それまでバリバリ文系に進むことを考えていたのですが、高校1年の生物の授業で習ったセントラルドグマに衝撃を受けて以来、生物学をもっと学びたいと漠然と思うようになりました。同時にこの頃、将来的にはそれを活かして、食糧問題の解決に繋げられるようなことを仕事にしたいとも思い始めました。

幸いこの4年間で英語が身についたこともあり、日本で大学に入り、大学院への進学を考えるようになったときには海外の大学院は自然と進路選択のなかにあったと思います。大学院で選ぶ、というよりは、自分が学業面でも教養的な面でもステップアップできそうな場所に行きたい、という考えでした。

日本で学部3年から所属していたラボはその分野において非常にレベルが高いチームで、研究に対する姿勢や考え方など学ぶことが山ほどありました。
そのため最終的には同じラボに残るか(国内)vs 言葉の通じないフランスの現ラボ(国外)に行くかというだいぶ大きな二択に絞り込まれることになりましたが、修士課程期間の奨学金の合格を頂いたことと、新しい環境・文化に飛び込んで、将来の目標に近い応用的研究の世界を覗いてみたいということでフランスに行くことに決めました。

ミニエピソード1『突然の渡米』

陸上部の練習と図書館通いに明け暮れていた中学2年の秋、メーカー勤めの父の転勤に伴って家族でアメリカに引っ越すことになった。当時の公立中学2年2学期の英語教育といえば、couldをやったかやらないか、現在完了形なんて到底やる前である。
英語は得意だったし、反抗期のとんがった勢いで「ついていく」と答え、某ラジオ英会話を何ヵ月か聞いてから渡米したものの、当然周りの言葉は一つもわからなかった。(授業開始時の“しっとだうん”くらい。)

父の転勤先はいわゆるカリフォルニア・シリコンバレーの近くでアジア人(特に中国人)やインド人が多くいて、ラテン系の人もたくさんいるまさに人種のるつぼを体現した地域だった。とはいっても日本人の人口が少ないからか、周辺に全日制の日本人学校のようなものはなく、着いた翌日から英語のレベルテストのようなものを受け、ぽんと現地の中学校に放り込まれるような形となった。

そこからは毎日8時から16時まで学校で英語漬けになった。無駄に真面目を発揮し、授業はさっぱりわからなくてもとりあえずノートは取り(もはや写経)、家に帰ってから解読して、それから宿題だけはすべてやる、という日々を続けた。毎晩19時に仕事から帰ってくる父に教科書や宿題の文章を一文ずつ一緒に夜遅くまで読み解いてもらった。長文の読解なんてやったこともなく主語や述語の見分けすらつかなかったから、まさに暗号を解くようだった。

これが3ヶ月続いた頃、ようやく周りの言葉が短い文章になって聞こえ始めた。そして約半年後、現地の高校に上がる頃にはほとんど問題なく英語を話すようになっていた。
学校という小さい社会でのサバイバルがかかっていたためとにかく必死だった。でもこのおかげでその後のセントラルドグマとの出会いや進路選択も含めて本当に世界が広がったと思う。

さらに、この一連の語学習得体験はフランスでもとても役に立った。(同じく某ラジオフランス語では足りなかった・・・。)特に家族がおらず、ましてやコロナで英語を話す留学生仲間もいない環境では、アメリカの時の比じゃないサバイバルとなって、英語よりもフランス語を習得できたと思う。

これらのことに関しては、改めて支えてくれた両親のおかげで、本当に感謝してもしきれない。

フランス進学までの流れ


海外大学進学経験者のとある先生から、ヨーロッパのラボはコネクションがあれば比較的話が進みやすいという話は前から聞いていました。
大学3年に上がるころに北大の所属ラボの先生に海外のラボを見てみたいと相談したところ、フランス・INRAEの現ラボを含めいくつかの候補を提示していただきました。

その中でもINRAEとは当時まだ繋がりが薄かったようなのですが、個人的に憧れていた研究所だったこともあって、ぜひそこに行かせてほしいとお願いしました。するとタイミング良く同じ日にJASSOの短期渡航向け奨学金の案内が掲示されたこともあり、あっという間に夏に6週間程度フランスに滞在し、2つのラボ(INRAEとAix-Marseille大学)にてミニ研究滞在をすることに決まりました。

この6週間の間は、とにかくやれるだけのことをやって、学んで、相手の印象に残れるようにしようと必死に講義や研究に取り組みました。すると滞在が終わるころに、Aix-Marseille大学のラボの教授からもし博士課程に興味があるなら、修士課程から進学したらスムーズにフランスのシステムに入れるから、ぜひ卒業後進学を考えてみてと言っていただけました。

この短期間の研究室滞在はもちろん私にとっても強烈なインパクトのある経験でした。日本とは全く違う講義形式やラボのシステム、そして生活面ではアメリカで出会うことのなかったヒトやモノ、文化に溢れていて、欧米とひとくくりに言いがちですが、まったく違う価値観の生活圏だ、と実感しました。もっとこの場所で研究者としても人としても学びたいとも思いました。

そして実際に修士課程進学を考えるころになって、再び同じ教授にコンタクトを取ったところ、日本の4年制大学で取った単位の互換性を考慮すると修士2年目のコース(全講義が英語)に編入可能だという返事をいただけて、進学したらインターンシップ(修士研究)でINRAEのラボで研究できると聞き、最終的に進学を決めました。

(ここではさくっと書きましたが、フランスのバカンス期間をまたぐメールのやり取りや丁寧な催促など、かなり苦労しました…。夏冬のバカンスは注意が必要です。特に大学事務は余裕で1~2ヶ月連絡が取れなくなります。ウザくなるのは承知で何度も催促しましょう!)

博士課程へ


修士課程修了後は、ラボでのボスやチームのメンバーと非常に良好な関係が築け、このまま続けたいと決意し、博士課程への進学(大学による雇用)を賭けた審査会(プレゼン10分+質疑応答25分)に参加しました。こちらも英語で参加することができました。

そこで合格を頂けたため、同じINRAEのラボで給料をもらいながら博士課程の学生として研究を続けられることになりました。ちなみにこの審査会の合格率は私の参加したカテゴリ内での書類審査時点からいうと25~40%程度だったかと思います。大学によりますが、基本的に植物系は医学系のいくつかの分野と同じカテゴリにされます。そのため審査員もほとんどが医学系の先生方だったりします・・・。

なぜフランスなのか


まず、フランスの大学院進学における特徴をいくつかあげると、

  • 国立大学の学費の安さ
     (修士(PhD)は243ユーロ (380ユーロ)= 約3~5万円/年度)

  • 修士課程2年+PhD3年(+1年延長可)システム

  • 英語のみで提供されるコースがある

  • 博士課程では生活するのに十分な給料がもらえる

  • 留学生も平等に社会保障サービス(国民皆保険や住宅手当)が受けられ、アルバイトも許可されている

    があります。

私の場合、博士課程以降の学費・生活費は自分で工面するようにと言われていたので、進学~修了までの実現可能性を考えると、「修了年数の制限なし」and/or「学費・生活費の高い」選択肢は取れないという前提がありました。つまり最終的に博士課程に進学するには国内外の奨学金の合否にかけるか、給料のもらえる環境に行く必要がありました。

フランスの博士課程に進学するには各大学が主催する審査会(コンクール)に参加して雇用契約を勝ち取るか、ラボに研究費で直接雇われる、企業に雇われるといった方法があります。コンクール経由だと、研究テーマの自由度も高く、ラボにとっても経済的な負担がないので、進学を希望する学生はまずこのコンクールに送り込まれます。

応募する母数を考えると、修士でフランスに進学しこのコンクールに賭ける方法が、日本のDC1や海外進学の奨学金などと比べて一番可能性が高いと考えて、フランスへの進学を真剣に考えるようになりました。単に実現可能性だけでなく、INRAEのラボでまさに自分のやりたい研究テーマがあることも重要な点でした。

また、言語という大きな問題がありましたが、ここはあまり深く考えず、少なくとも英語のコースに入れるんだからなんとかなるだろうと思っていました。(甘い考えでした…。)将来アフリカなどのフランス語圏で仕事をできる可能性も得られると考えると、この進学でフランス語がある程度身につけられたら好都合だと考えていました。

さらに、自由に動けるうちにできるだけ今まで触れたことのない環境で生活し、見聞を広めたいという気持ちもありました。日本・アメリカとまた異なる文化圏で生活するのは自分にとって必ずプラスになるだろうと思いました。

来てみて1年半


自分で想像していた以上にラボや生活に馴染めて、楽しく暮らせています。フランスの南部は恐ろしいほどに英語が通じず来てみてから愕然としましたが、多くの人が人情に厚く、本当に色んな場面で助けてもらっています。

INRAEのラボでもコロナの影響もあって特に去年後半までは留学生はほとんどおらず、非フランス語話者は建物内で私だけというような状況でした。そのおかげというべきか、フランス語がメキメキと上達し、今では一日の9割をフランス語で過ごすようになっています。コミュニケーションが取れると同僚との関わりも深まって、コロナで日本への行き来が容易にできず辛い部分はありますが、なんとか乗り越えられています。

ただし、いまだにフランスの事務手続きのシステムには苦労します。これは外国人かどうかにかかわらず、フランスに住む人全員の悩みのようですが…。

ミニエピソード2『ボス宅に居候』

2020年春、大学卒業を目前に新型コロナウイルスの大流行が発生した。フランスへ行くビザを申請しに行ったその日に、フランスの第一ロックダウンがアナウンスされ、ビザ発給まで4ヶ月悶々とするような事態となった。(4月から修士課程開始まで予定していたフランスの研究機関CEAでのインターンもほぼパーに。)

ようやくビザを受け取れた8月、満を持してコロナ真っ只中のフランスに飛び込んだ。6ヶ月から2ヶ月に濃縮されたハードなインターンを経て、修士課程が始まったとおもった矢先の10月末に第二ロックダウンが発表された。しかも開始の48時間前にアナウンスするフレンチスタイル。

何からやればいいのか検討もつかず、半ば麻痺した状態でいた。すると前に訪れた、修士研究の進路先でもあるINRAEのラボのボスから「なんか大変なことになりそうだね!大丈夫?緊急のときにはうちの空いてる部屋においでよ!」というとても親切なメールが来た。

というのも当時の私はマルセイユの端っこに位置する自然豊かな地中海のカランク国立公園の横にある学生寮で9平米の部屋に住んでいたからだ。ボスの家はラボがあるアヴィニョンのとなり町にあり、マルセイユからは100キロほど離れている。寮の周りにはただでさえ何もないのに、そこで無期限のロックダウンを堪え忍ぶのはさすがに厳しそう・・・でもこれから一緒にラボで仕事する人の家に何日も居候するのも・・・。

マルセイユのカランク

しかし、なにせロックダウン開始まで48時間もないので移動も考えると、迷ってる暇もあまりなかった。なんと返事しようか考えているとボスからさらに「うちにはスペースがある、嫌になったらマルセイユに戻ったらいいから、とりあえず動けるうちにぜひうちに来て僕の家族とすごしたらいい。」と連絡がきた。

ここまで言ってくれるなら、と居候させてもらうことに決めた。慌てて荷物をすべてまとめ、2日後にはインターン先のラボの博士の学生に車を出してもらって、警察の取り締まりにビクビクしながら100キロを移動した。言葉のわからない国でよくわからない流れのまま、なんだか亡命するような気分だった。

2ヶ月近いロックダウン中、最終的には3週間ほどボスのご家族と過ごさせてもらうことになった。子供3人を含む5人家族なので、常ににぎやかでロックダウンもあまり辛い思いをすることなく過ごせただけでなく、フランスの家庭の生活にどっぷり浸かり、同じように毎日食事をし、寝起きする貴重な体験ができた。

とにかくチーズばかり食べる、意外とアルコールを飲まないという様々な発見があった。今でも定期的に実家のように遊びに行き、ボス家族と週末を過ごさせてもらっている。コロナでネガティブなことの方が多いなか、ある意味コロナだったからこそできた人とのつながりで非常に大きなプラスの経験になったと今では思う。

さいごに


大学院留学をする道筋は一番始めのきっかけから考えると千差万別で、だれかと同じ道をたどる人は少ないと思います。私は周りの海外留学希望者に比べると、あまり積極的にセミナーなどには参加していなかった不真面目な方でした。

しかし、自分の目に入った情報は逃さず人との出会いは大切にすること、とにかく今目の前にある勉学や研究テーマには全力で取り組むこと、自分にとって何が最良なのかを見極めること、これだけは意識してきました。幸い、今自分が今いる場所にたどり着けたのは、これが運よく積み重なってきたからだと思います。

これから海外留学を考える方々には色んな背景や今いる環境があると思います。でも行きたいと思ったら、遠慮せず周りの人に言って、助けてもらって、誰も行ったことがない場所だったとしても、自分の心が動く方に進んだらいいと思います。一筋縄ではいかないこともありますが、必ず進める方法がどこかにあるはずです。
そして周りが何と言おうと自分にとっての最善を決めるのは常に自分です。

フランスはレベルの高い研究が行われているラボが非常に多く、経済面も考えると非常に進学先として穴場だと思います。(特にパリなど大きな都市のラボでは言語も英語が公用語なのでは…と思います。)

経験からいうと、言語の壁はやや厚いと感じましたが、それを上回る温かいフランスの人々に支えられながら暮らす経験は本当にほかに代えがたく、大変なことは多いですが(ミニエピソード3参照)この場所に来てよかったと思います。

ミニエピソード3『フランスあるある(トラブル多め)』

◎ 家探し
      家具家電つきの賃貸の5割くらいは洗濯機なし物件。
      Wi-Fiはあっても洗濯機はない。
      そもそも洗濯機を導入できる構造になってないことも。
◎ とにかく洗剤類が高額。
   (洗濯機のことも含め、あんまり洗濯しないのかしら・・・。)
◎ とにかく英語が通じない(特にフランス南部)。
     電車の主要駅のカウンターで通じなかったことも・・・。
     でもある意味、相手は差別なくフランス語で突破しようとしてくるので面白い。
◎ バスや電車が時間通りに来ない。
     電車も3回に1回は遅延やキャンセル(当社比)。
◎ 郵便もあまり届かない。何ヵ月後かに届いたりする。
◎ 衛生的ではない場所が多い・・・。
  (しかし個々人はきれい好きが多いので不思議。)
◎ なんでもスポンジできれいにする…。
     食器もシンクもダイニングテーブルもスポンジ1本。
◎ パンやお菓子などの食べ物をテーブルに直置きする…!
◎ 事務手続きを受け付ける人によって必要書類が違うことがある。

◎ ストライキがしょっちゅうある。
      
職場では不参加証明にサインに行く必要がある。

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