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手紙を書きたくなる夜

台風9号の吹き返しの風がすごいよ。部屋が揺れてるよ。
そんな言葉を今夜は何度も書いた。

ギリギリ暴風域に入るか入らないかだったのだけど、思った以上に風が強くて少し怖い夜だった。
古い家なので、家の中でも風が走る。部屋のカーテンはかなり大きく揺れたりする。

ときどき、無性に手紙を書きたくなるときがある。
今どきのLINEやメールでもまったくかまわないし、日頃はLINEを多用しているのだけど。

でも、なんとなく自分でペンや万年筆を持って字を書きたくなるときがある。

返事はとにかくいらないから、ちょっと誰かに何か聞いてほしいというとき手紙は便利。
私からよく手紙をもらう人は、私が返事を必要としていないことを知っているから安心して書ける。

今夜は書きたくなる夜だった。

自分の中でなにかが一段落した気がしたので友だちに聞いて欲しくなった。
一人に書いたら次々と書きたい人が出てきて、結局続けて何通か書いた。
誰かが見ていたら、なにかに取り憑かれたような姿に見えたりするのかもしれない。

上手な文章は書けないけど、自分の書きたいことはそう苦労せずに書ける。

自分の書きたいことをあまり悩まずに文章に乗せられるというのは、とても幸せなことかもしれない。
誰かになにか聞いて欲しくなったときに、悩むことにそう時間を取られずに書ける。
その点でのストレスはとても少ないかもしれない。
しゃべりたいことを、そのまま書いている。

これまでたくさん書く必要があって、書く作業をとにかくたくさん積んだからスムーズなのかもしれない。

自分の父親が日頃からまったく話を聞いてくれない人だったので、自分の気持ちをぶつけるためにはとにかく書くしかなかった。
書く練習をたくさん積ませてくれたのは、父だったのだなぁと思う。

今は誰に対しても、そう悩まずに書ける。
これはなんだかとてもありがたい。

「また父との揉めごとが起きてしまったのだけど、でもようやくなんだか吹っ切れた気がするよ。」
という内容を、今夜は何度も書いた。

ありがたいことに、私には日頃から愚痴に付き合ってくれる友人も多い。
私の身の上についてはよく知ってくれているので「また父と揉めごとが起きた」と書けばだいたい察してくれる。

「知っていてくれる」とか「だいたいのことを察してくれる」というのはとても救われる。
そんな人たちに囲まれているからこそ、私は難しい状況に置かれてもひどい孤独感に陥らずに済む。

ひとつ前のnoteでも書いたのだけど、私のこれまでの人生は父との闘いの連続だった。

なぜ私はこんなに自分の父親と闘わなければならないのか。
今でも答えは見つからない。

最近もまた、ちょっとした揉めごとが起きて、ひどく苦しい状況に陥った。
またしても父と闘わなければならなかった。

「なぜこんな手紙を私は父に書かなくてはならないのだろう?」
数日前、そう思いながら自分自身もひどく気分の沈み込むような手紙を父に書いた。
もう今度こそ最後の手紙となりますように!と強く祈りながら。

でも今回、なぜかふと思った。
こんなに自分の父親と思う存分闘える人って、そんなにいないかもしれない、と。
思う存分闘える私って、もしかしたらとても幸せなんじゃないか?と。

どれほどたくさん手紙を書いても、なかなか父に私の気持ちは伝わらなかったけど、
とにかく自分の言い分をぶつけることはできた。

こうしてこれだけ思う存分に闘ったのだから、
父が人生を終えるときには、もう穏やかな気持ちで見送れる気がする。

初めてそんなふうに思えた。

いろいろな事情で、自分を傷つける誰かと闘いたくても闘えずに一方的にガマンするしかない人もいるはず。

もちろん私にとっても父親と闘うというのは言葉ではいい表せないほど難しくて苦しいことだった。
でも、私は闘える状況にいた。

もし私が息子だったら、もっともっと難しかったのかもしれない。
母と娘の関係が直線過ぎて難しいのと同じように、父と息子はたぶんとても難しい。

自分に逆らう息子を、たぶん父親というのは本能的に抑えつけて潰したくなるのではないだろうか?
(もちろんすべての父親がそうだとは思わない!)
男という同じポジションにいるからこそ、自分のポジションを奪われてしまいそうで、
父と息子が対立したときのその構造は根深いものになるのかもしれない。

父と娘という、少し斜向かいの関係だったからこそ
これまで何度もひどい大ゲンカをしても、どうにか凌いでこられたのかもしれない。

子どもの頃、父に何度も言われた。
おまえは男に生まれればよかったのに、と。

私は自分が女であることになんの疑問も持ったことはない。
男に生まれればよかったのになんて、おかげさまで一度も思ったことはない。

女であることに何も困ってない私に向かって「男に生まれればよかったのに」なんて、なんちゅう余計なお世話だ!と言われるたびに思った。
今でも「なんちゅう余計なお世話だ!」という気持ちはまったく変わらない。

今、つくづく思う。私は女でよかった。

父から見たら、兄や弟を押しのけて根性の悪い娘なんて目障りでしかなかったかもしれない。
息子に対しての不甲斐ない気持ちが父の言葉の根っこにあったのかもしれない。

でも、父がどう思おうが、父に何を言われようが、私は娘というポジションに生まれてきてよかった。

この世に生まれてきたときのことを覚えているはずもないけど、たぶん、父と闘いたくて私は生まれてきたわけではない。
今でも誰とも闘いたくなんかない。

でも、闘うしかない状況に置かれてしまい、そうして父と思う存分闘えたのは、
私が息子ではなく娘としてこの世に生まれてきたから。

一方的にガマンを強いられることなく闘えて、本当によかったと思う。
闘える立場にあったことも、そして悔いなくとことん闘えたことも、本当によかったと思う。

恐ろしく難しい状況で苦しんだし、たくさんもがいたけど、これでよかったのだ思える。

これから先もまた問題が起きるかもしれないし、また闘うしかない状況がやってくるしかないかもしれない。
そのときは、またとことん闘うだけの話。

そう思ったら、なんだか少し吹っ切れた。
少し気持ちが吹っ切れたら、友だちに「少し吹っ切れたよ」と話したくなった。

以前、ある人に「男前」と言われたことがある。
その人のその言葉は、私にとってはとても心地よかったし嬉しかった。

私は強い人間ではない。メンタルもいつもぐちゃぐちゃ。
でも、どこか図太くて、なんだか自分の中に男性的な部分を感じるときがある。
早くに離婚したことで、無意識に父親の役割を背負わなくてはと気負って生きてきたかもしれない。
それでよけいに父親的な部分が生まれたのかもしれない。

自分の中の男性的な部分は、私を助けてくれたかもしれない。
私が女性らしい人間だったら、ここまで父と闘えなかったかもしれない。
無茶な離婚をして気負って生きてきたことも、無駄ではなかったかもしれない。

誰も助けてはくれない。
自分一人で父親と闘うしかない。
そんな状況は、私を強くしてくれたかもしれない。

いろいろなことに対して自分の中で「納得」が進んでいる気がする。
いろいろなことが腑に落ちた、という感じ。
父との関係が修復されたわけでもないし、闘いが終わったわけでもないのだけれど。

これでよかったのかもしれない。いろいろあったことに対してそう思える。
暗闇の中を手探りで進んできたけど、そう間違った方向へは進んでいないと思える。

少しだけ、「闘いを終えて…」みたいな気分。
穏やかな風に吹かれているよう。

しばらく凪の中にいたい。

もしまたすぐに何か問題が起きて、また父と闘わなければならなくなったら、
「え!?闘いは終わってなかったのかよ!!」と自分で呆れて笑おう。

今夜は何度も「とことん父と闘って、なんだか少し吹っ切れたよ。父のおかげで強くなれたよね。」という言葉を書いた。

これから先、「父のおかげで…」という言葉が自分の中からたくさん出てくるといいなぁと思う。

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