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ガラスの破片に陽の当たるとき

今日も息子から送られてきた動画でピアノ曲を聞いている。
昨日と同じ私の知らないピアノ弾きさんの、おしゃれなアレンジ曲。
今日はショパン。

聞く人を心地よくさせる仕上がり。自由そのもの。
私が「上手だ」なんて言葉を使うのが失礼なような。

ただ、私には
型どおり、教科書とおりの音楽が耳になじむ。
つくづく、「枠からはみ出せない自分」に苦笑する。

いろいろと抱え込んでいた重い問題や息苦しさ、生きづらさから
いつの間にか解放されていた。

その分、目標を失ってなんだかぽっかりと穴が空いたよう。

強烈な寂しさの中にいるのではないけど、ちょっとだけ寂しいような。

息苦しさはなく、ふわふわと心地いいのだけど、
私の周りだけ「方角」が消えてしまったよう。

『自分』というのが少し心許なく感じる。

それでも、
送られてきた音楽でなにかを感じたり…
自分で撮ったヘタクソなスマホ写真で、ふとなにかを思ったり…
変化に乏しい日常の中でも、ふっとなにかを感じる瞬間は多い。

ガラスの破片に陽が当たってキラッと輝いたような。

できるなら、そんな瞬間を切り取って
淡いグラデーションの美しいパステル画に残したい。
私の感じるものを、なにかの手段で、自分なりの形にあらわせたら…。
本気でそう思う。
なんの才能も持ち合わせていない自分がつくづく恨めしい。

なんの手段も持たないから、こうして少し言葉にして紡ぎたくて
タッチペンを持って今日もタブレットとにらめっこしている。

手段がないから「言葉」というツールを選んでいるけれど
こうして「言葉」を選ぶ瞬間は、私にはとても心地いい。

上手に書くことはとりあえず横に置いている。
なにせ私は枠からはみ出せない不自由な人。

言葉を選ぶ時間は、自分にとってのゆるりとした時間。
語彙のストックも少ない。気の利いた文章も私の中からは出てこないけど。
自分にとってのなによりのひととき。
ゆるりと紡いだモノを安心して置いておける場は本当にありがたい。

たぶんだけど、
言葉を選んでいるとき、私はなにより「自分」を感じられる。

いつも心許なく、おぼろげにしか感じられなかった「私」。
言葉を選んでいるとき、私は私を感じられている。

いるよね。私がいるよね。

そうして安堵できる時間が私が包む。

ガラスの破片に陽の当たる瞬間をこれからもたくさん見たい。

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