本それ。結局はかけた時間がものを言う
さてアドヴェンター4日目、朝からとりかかったエスペラントの話をしようか、たまたま本棚を見ていたら目に留まったカラチャイ=バルカル語の話をしてみようか…と考えながらnoteを立ち上げたら、大学で韓国語教育に従事されておられる先生が示唆に富む内容の文章を書いていらっしゃるのが目に留まりました。シリーズで書いていらっしゃるようで、どれも大変興味深く拝読しているところなのですが、特にここですね…
いやもう。"Aynen öyle."ってやつで。まさしくという感想しかありません。自分自身のトルコ語習得についての実体験としても、まさにそうだよなという感じです。
さてこちらは、私の市民向け講座のトルコ語の「最初の」クラスのシラバスなのですが…
正直に告白しますが、かなり「盛っている」部分があります。どこかというと、「読む・書く・聞く・話すといった言語技能のバランスを重視した講座を目指します」というところ。
これは週1回、90分の講座でしかも20名以上の受講生と対峙する場合には相当厳しい目標といえます。
なんせ語学は、インプットできて(読む・聴く)かつアウトプットもできる(話す・書く)というパフォーマンスの習得が最終目標とされるところでしょうから、文法を「あーなるほど、トルコ語はそういう風になっているのね」と理解するだけではまだ半歩しか進んでいないと言えるのですよね。
そこからもうさらに半歩進んで、できるだけ辞書なしでトルコ語での情報を受信し、また自分の伝えたいことを発信できるようになるまで導くというのが教える側のやるべきことなのでしょう。が、実際に語学に携わってみて思うのは、この目標の絶望的なほどに思える遠さです。
少なくとも私はそう感じながらかつては大学で週1回のトルコ語の授業を担当していましたし、現在も同様にして週1回の講座に臨んでいます。
その理想と現実のギャップをなんとか埋めるべく、Google Classroomを使って課題をエクストラで提示したり、単語小テストを出題してみたりといろいろ今年度もやってはみているのですが、果たしてその効果はどうでしょうか。少しはあると報われる気はしますけどね…。
ともかく、90分週1回というのは、学習者という立場でみたときにはやはり少ないです。とても少ない。やっていないよりはましでしょうけど、それでも自分が思っている以上に言語って簡単に身につかないんだよな、と。
この実感は、トルコ語を教える側になっている自分自身が、学習者としての立場として経験しています。今はなき「大阪のほう」の外国語大学では、トルコ語は1年次、2年次と週に5コマ「語学」としての授業がありました。
大阪外国語大学のトルコ語専攻というのは当時それほど学生にプレッシャーを与えるような雰囲気はなかったと思いますし、なにより私自身が学部の前半は到底まじめにトルコ語をやっている学生とは言えなかったのですが、それでもなんとか勉強はして、ぎりぎりその年その年で進級はできていました(いや、進級させてもらっていたという表現が正しいかもしれない)。
そんな中で3年生の夏休みでしたか、「トルコ行ってみません?」と1つ下の学年の後輩氏だったと思うのですがこちらを誘ってくれて、そうか現地に行ってみるっていうのはモチベーションを上げる手段としては最高だよな、ということで4週間ほどイスタンブルあたりを中心に滞在したことがありました。
が、このときはまだ本当の意味で「自分にはトルコ語の実力が不足している」という現実をつきつけられていなかったと思います。なぜかというに、所詮は「旅行」だから。
もちろん、ああ通じなかった、というショックは場面場面で経験したはずではありますが、まだまだ甘かったというか。
旅行って、想像以上に現地の言語を使わないでもなんとかなってしまうものなのです。旅行者の意図やしたいことがはっきりしているから意図を別の手段で(たとえば、シンプルな英語を使うとか)伝え合うことはできますし、相手もこちらがトルコ語を使うことを最初から期待していなかったりするし、なにより観光で訪れるような場所ではちゃんとトルコ語ができない人が訪れてもなんとかなるようになっているのですよね。
自分の実力不足を思い知った最初の瞬間はもっとその後、トルコ政府奨学金制度の留学生として短期留学したときでした。
受け入れの大学と学科の先生は決まっていたのですが、どこに住むか、奨学金を実際に受給するための手続きはどうするか、等々は全て渡航後に自力で解決していく必要がありました。
その時にあちらの国民教育省(トルコ語でMilli Eğitim Bakanlığı、日本でいう文部科学省に相当するところですね)の担当部局をたらいまわしにされ、担当職員が何を言っているのか100パーセント理解できないという経験をし、国立の学生寮に入る手続きをするための部局ではぶっきらぼうな中年の女性に「こいつは何を言ってるの」とでかい声でののしられ…という経験は貴重でしたが、今思い返しても苦いとしかいえません(あの職員はもうちょっと優しく接するべきだったと思いますね。今思い出しても少しいらっとくるかもしれません。まあええけどさ)。
そうこうしてようやく手続きを終えて入った語学学校でプレースメントテストを受けて、お前の実力はここ、と言われた瞬間に、ああなるほど、と実感したのでありました。オレの日本でのトルコ語の勉強時間がぜんぜん足りていなかったんだな、と。
実際約1年ほどの短期の留学でしたが、渡航前と帰国後では明らかに語学力に違いが出ていたと思います。将棋で言えば、そうですね…段2つくらいは違ったかもしれません。それくらい、トルコ語に触れた時間の多さが大きかったのだと理解しました。
そうであるとすれば、外大学部時代の90分×週5コマも、漠然と受けているようでは全然足りないんだなと。結局その授業以外の時間も含めて、毎日意識的に取り組んだ人だけが語学力を手にするっていうことなんだろうなと思うのです。
で、現実というものはさらにタチの悪いことに、これだけできればOKというラインが見えないということです。
今でももちろんそうです。
ああオレ、語彙力足りてないなあとか、しまった勉強不足だったと思う経験、いやというほどしています。そのたびに、サボらずにトルコ語勉強しとこう、さもないとまた次回教える段階になって恥をかくからな…とは思うのですけどね…
…といった話をふまえて、再び最初の話に戻りましょう。
みなさんの多くも経験していらっしゃるであろう、週1回の「教養」としての外国語講座。ここを受講する側としてどうとらえるかというのは結構大きい問題です。
教える側としては本当に工夫しながらやっていらっしゃる先生たちが多いと思います。できるだけ最大限の効果が出るような工夫をこらしていらっしゃると思う。
でも、結局はかけた時間がものを言うという現実はゆるぎない…ということも、正直に伝えるべきなんだろうな、ということは常々考えています。
そういった諸々の雑念をオブラートに包んで包んで、「トルコ語楽しいでしょ??」とか、「トルコって面白くてですね、たとえば…」みたいなノリで講座なり授業なりに臨んでいる、という感じです。
ほかの言語の先生方のご意見もぜひ伺ってみたいところです。
韓国語のような距離感の近さを感じられる言語はいざしらず、なんせ我々の担当する言語ってのは、受講生が集まらないと開講してもらえないんですから…
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