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夫で父で会社員でコピーライターということ

(僕たちの)ありふれたカケモチ

 高校時代、部活をたくさん掛け持ちした。すべて文化部だったが、幽霊部員になったものを除いても4つの部に所属していた。軽音楽部、美術部、演劇部、それから新聞部。
 ウェス・アンダーソン監督の映画に、クラブ活動を兼部しまくる高校生を描いた『天才マックスの世界』というのがあったが、こっちは「凡才マックスの世界」という感じで、ただ楽しいからやっていただけだ。それでも年に一度、過酷すぎる季節がやって来る。それが「文化祭」だった。

 どの部の部員としても、なにか発表をしなくちゃいけない。そのための準備もまた掛け持ちになるのだった。ほんとにもう、文化祭前2週間の忙しさといったらなかった(文化祭で失敗したら死ぬ、ぐらいの危機感に追われていたのだ。なんなんだあれは)。
 そんな季節から20年以上が経ったけれど、社会人になって経験したどんな激務も、あれほど忙しくはなかったような気がする。

 いま僕は38歳で、コピーライターとして広告会社で働いている。妻(共働き)と、娘のコケコ(仮名。酉年にちなんでこう呼ぶことにする)と、東京で暮らしています。コケコは、ついこのあいだ2歳になった。

 最近、保育園の送り迎えを繰り返す毎日のなかで気づいたのだ。いまはいまで、俺、掛け持ちに追われてるじゃないか。息切れしそうじゃないか、と。
 コピーライターとして複数のクライアントを掛け持ちしてる?広告制作の仕事は文化祭みたい?いやいや、もっと根本的なことだ。
 夫と、父親と、会社員と、コピーライター、を僕は掛け持ちしている。

 なあんだ、そんなのフツーじゃん。そうなんです。多くの人と同じで、特別なことは何もない。職種がなんであれ、複業などしなくたって僕たちはすでに複数の営みを兼ねている。
 そういう「ありふれたカケモチ」をする人に、僕もなった。そして、まさにその「ありふれたカケモチ」のなかで思ったことや起こったことについて、何か書いてみたいと思ったのだ。
 4つの部活を同時にやっていたあの頃、毎日何をして何を感じたのか、文章に残すことをしなかった。それをすこし勿体なかったなあと悔やむ凡才マックスな自分もいるのである。

 とはいえ、今回は「ありふれたカケモチ」だ。「ありふれた」なんて高校生の自分がいちばん「つまんない」と思っていた概念である。つーか、そんなこと言ったら、いまの僕をあらわす「新橋の」「サラリーマン」だってそうだろう。
 その領域にいま、敢えて挑もうというのであって、それってむしろ果敢なんじゃないか?なんて詭弁まで、おっさんになった私(とか言ってみる)は用意した。これを引っ提げて(どこに?)、noteつまり覚書を書いていくことにする。

 夫兼父親兼会社員兼コピーライター。
 もしかするとそこに、「それらのどれでもない(社会的役割のない)自分」も加わるかもしれない。
 で、最初に思ったのは、「兼」って字はなんだかごちゃごちゃするし、見た目があんまりかっこ良くないなあってことだ。なので、ためしに「兼」を「#」に変えてみる。

 夫#父親#会社員#コピーライター#魚返洋平

 うん、まあ、はい。まったく無意味でした。数行ムダになってしまった。そもそも、よく見ると「兼」という文字はそれ自体、「#」を内蔵しているではないか。だからなんだというのだ。

わが家は、こんな24時間

 まずは、僕や妻が最近どんな1日を過ごしているのかを整理しておくことで自己紹介に替えたい。図にすると、平日はこんな感じです。

 約4カ月前に書いたコラムでは、娘が1歳8カ月の時点を切り取っているのだが、そこから大きな変動はない。ということは、ようやく「かたまってきた」と言えるのかもしれない。ここ4カ月での変化は、電動アシスト付き自転車がわが家に導入されたことぐらいか。

【僕の担当】
保育園の送り/保育園の迎え/保育園の連絡帳記入/寝かしつけ/夕食後の遊び/食器洗い/風呂掃除

【妻の担当】
夕食をつくる/コケコを風呂に入れる/コケコの爪切り/保育園の持ちものセット/洗濯/家の掃除

【分担が流動的なもの】
夜間の添い寝(日替わり交代制)/コケコに朝食を食べさせる(添い寝したほうがやることも多い)/コケコに夕食を食べさせる/コケコの歯磨き/ゴミ出し

 コケコのウンチの処理については、毎回細かい連携が発動する。オムツを脱がせ、お尻を拭き(たまに手に被弾する)、新たに履かせるのが僕。脱いだオムツをトイレにもっていきブツを流す(まるでガサ入れを受けて違法薬物を急遽処分する人のように手際が良い)のが妻。というチームワークだ。

 時間配分でみると、僕の1日はだいたい以下のような構成比になる。
・会社員(職業人)として7時間
・父として6時間
・夫として2.5時間
・そのどれでもない自分として8.5時間(睡眠含む)

 思うのは、「夫」「どれでもない自分」として何かをする時間が圧倒的に少ないということで、正直言って、仕方ないながらもそのことをちょっと残念に思う。だがこれを残念に思ってしまうこと自体もまた残念だ。そこに劣等感もある。だって、ネットで、仕事・家事育児の両立に励む男性の記事やブログを読む限り、残念なんて感想をこぼす人をほぼ見ないではないか。

意味はあってもなくても

 あのころ掛け持ちしていた部活は、結果的にそれぞれ、いまの仕事につながっている。ポピュラーミュージックへの興味は広告に活きるし、絵心は企画書の武器になる。演劇の経験はCM制作のディレクションに役立つし、限られた文字数で書く癖がコピーライティングを助けてくれる。それらの組み合わせで食っている。あの掛け持ちにはまあ、意味があったと言えそうだ。

 じゃあ、いまやっているこのカケモチには、どんな意味があるんだろうか? 僕は知らない。あと20年したら分かるだろうか。それ自体、分からない。いや、意味なんて特にない可能性が高い。それでも、何かすこしでも分かりたくて、知りたくて、これを書くのである。

 ただひとつだけ確かなことを、せめて記事の最後に添えておこう。広告でいうと、ここから「商品カット」になります。商品、ばーん。
 半年前(2019年初頭)に僕は、『男コピーライター、育休をとる。』という本(大和書房)を出しました。ぜひとも買って、読んでみてください。もしくは、読む前に、買ってみてください。


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