嫌われる勇気
って言葉があります。ざっくり言うと「嫌われるリスクを避けてストレスを溜めるよりも、自分の思ったことを言ってストレスなく生きよう」ってことです。
言わんとせんことはとても良く分かります。働き出した当初は、確かに嫌われることが怖くてとか、先輩だからとか色々考えて、疑問に思ったことに対しても我慢していました。嫌われることを恐れてストレスを溜めていたって言えますね。
そのような状態で2~3年過ごしてしばらく経つと、疑問に思ったことを言ってもどうしようもないから言わない、他のアプローチで何とかする期に入りました。この時期は極端な効率主義だったように思います。とにかく、出来る人がやればよい。仕事の振り方振られ方についても、徹底的に出来る人がやっちゃえば楽。確かにその一面はあるんですね。適材適所、得手不得手があるので。
でも、そうなると何が起こるかと言うと、仕事に偏りが生まれるんです。そして、任される人に不満が溜まっていく。「なんで俺ばっかり」。更には、自分が上に立ってると錯覚してしまいます。「あいつは仕事が出来ない」。これは正直あまり健康的じゃなかった。人への不満が出るし、何より自分が勘違いする。
それらの経過を経て今どうなったか。出来ていないことに対しては言う。間違ってることは間違ってると言う。これが一番分かりやすい。とりあえずこちらの理屈が通っていれば、たとえムカつかれても正しいのはこちらです。教員の基準は結構簡単で、「生徒の為に」が根底にあれば間違いではない。あとはアプローチの方法を考えること。伝え方はもちろんですが、やっぱり最近思うのは言わなきゃ変わらない、気付かないってことです。
前提は人によって違う。だから「自分の当たり前が他者にとっての当たり前じゃないように、他者にとっての当たり前も自分にとっての当たり前じゃない」んです。でも、それを間違った方法で適用すると、上記のように仕事の偏りや変な自意識過剰が生まれる気がするんですね。
前提を正しく理解すると良い。人と自分は違うんだから。その上で注意してあげれば?それは嫌われるリスクではないと思う。正しいことを言って何が悪いのかな。「言いにくい」は日本の文化です。ルース・ベネディクトの「菊と刀」において、「恥の文化と罪の文化」と言う言葉が出てきます。日本人に、他者意識が強いことを指摘した言葉です。外面からの他者の目が「恥ずかしい」から言わない、言えない。その代り見えない所で文句は言う。西欧の人は神に対する「罪」の意識。だから、どこであっても内面で行動を見直す。どちらが良いとか悪いとかではなく、もともとこのような性質があるという鋭い指摘であるように思う。
言ったら嫌われる?そんなことないと思うけど。嫌ってくる人はそもそも本当の意味で、あなたの事を好きじゃないですよ。言われて真に受けずにヤダっていうって事は、多分その人はあなたの事を下に見てます。年齢や役職の壁は確かに有ります。それが日本式の働き方の特徴なので。
本質を考えてみたい。目的は教師である以上同じでしょう。かつ、自分が楽しく働きたいでしょう。だったら言わないと。自分が損するのは損ですよ。言わないのに察してくれはなかなか難しい。別に理路整然と言うのは簡単だけど、遺恨は残したくない。そんな中で「言えること」は言っといた方が楽ですよ。それで嫌ってくる人たちは働く気が無いので、放っておきましょう。
「嫌われる勇気」は考え方としてとても分かりやすいものです。参考にしてください。でも個人的には、「嫌われる勇気」は嫌われるということを意識し過ぎているかな。僕の中では「嫌われたくない」は、停滞を生むと考えています。ただ、決して「嫌われるために言ってる」わけではありません。誰も嫌われたくない。そんなこと考えずに、「言う勇気」を持つイメージです。
本人だって気付いてないそのことには、こちらから示していかないといけません。楽しく仲良くやれるには、効率いい方がいいに決まってるし、イライラしない方がいい。適材適所を守りつつ、分からない所は指摘し合って、成長していきましょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?