「うちなーぬゆー」――資源活用事業#24
植戸万典です。いろいろと難しいことも多いけど、なんくるないさ。
6月23日は沖縄の慰霊の日。畏き辺りにおかせられては、終戦の日や広島・長崎の原爆忌と同様に忘れてはならない4つの日のひとつとされているとか。
沖縄戦だけでなく、古琉球から近世琉球、沖縄県の設置などなど、琉球・沖縄の歴史はなかなか簡単に語り切れるものではありません。
それでもその歴史に敬意を表して、日本史をやっている身としてはそれを少しでも理解していたいと願い、今日は去る5月23日付の『神社新報』に寄稿しましたコラムを載せてみます。
もちろん、歴かなは現かなに改めまして。
コラム「うちなーぬゆー」
「うちなーぬゆー」のオーディオコメンタリーめいたもの
京都の「だんのうさん」こと檀王法林寺の猫像は、寺社系招き猫頒布の古い例と言われています。
昭和のはじめ頃に書かれた史料によると、江戸時代にはだんのうさんの右手をあげた黒猫像を民間で真似ることが規制されていたとされます。
招き猫の発祥は諸説ありますが、史料的に確実にわかる範囲では、浅草寺境内で今戸焼の招き猫――いわゆる「丸〆猫」が売られていたことが浮世絵などに描かれています。
丸〆猫は現代の人形職人によって復刻され、年末の浅草寺での羽子板市に出ています。初日の朝には売り切れてしまうということで、私も頑張って並びました。
招き猫の手を挙げる姿も色々言われていますが、仏寺との関係を考えると施無畏印のようにも見えてきます。仏の眷属の猫が主人の姿を真似ているのかな、と思えば猫好きにはますます可愛く見えるものです。ただ檀王法林寺の主夜神の印相は合掌なので、多分無関係かと。
もっとも、京極夏彦先生は『百器徒然袋――風』の「五徳猫」で、右手を挙げる主夜神の図像があることを指摘して檀王法林寺の猫と関連づけておられるので、可能性はゼロとは言えませんが。
ちなみに寄稿したコラムでは省きましたが、日琉同祖論はちょっと複雑な構造でして。と言うのも、これは沖縄の歴史家・知識人の方がよく論じているんです。伊波普猷とか東恩納寛惇とか。単に侵略の文脈だけで説明していては正鵠を射れないものだと思われます。琉球最初の正史『中山世鑑』を纏めた羽地朝秀(向象賢)の言う為朝伝説とか同祖論とかも、薩摩に強制されたと単純に考えてしまうと見誤るもので、羽地の日琉同祖論は王府の財政再建に関わる諫言なだけだというのが現在の学説とされます。琉球を単なる弱者に位置付けるだけでなく、もう少し多角的な見方が必要なのだろうな、というのが今のところの実感です。
ただ個人的には、財政再建の諫言とする説は納得ながら、琉球の諸々は全て日本からやってきたのだという主張が諫言の一部として通じると考えられたのであれば、やはり為朝伝説は首里王府で眉唾モノとは見られてなかったということなのではないかなぁ、とも思います。
琉球の為朝伝説とか義経がチンギス・カンになった話とかのアレコレは、高井忍先生の歴史ミステリー『蜃気楼の王国』なんかも面白いですよ。
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