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自分を理解することなんて、一生できないのかもしれない


独り言のような文章になると思うので、興味がある方だけご覧ください。
あなたにはこんな経験はないだろうか?

人前で話すときに、思ってもいなかったことを言ってしまった。

そんなつもりはなかったのに、とっさに手を挙げて発表した。

何が言いたいか、というと「自分でも思ってもいなかった行動をした経験」のことだ。人前で話すことが好きな人は、決して多くはない。
それなのに、手を挙げて「私やります」と言ってしまったような経験、だ。

私には結構ある。
「何か質問ありませんか」と言われて、誰も手を挙げていないと、なんだかその主催者の人が可哀想になって、質問を用意していたわけではないのに、「はい」と手を挙げて質問したこと。

未経験の仕事のオファーなのに、「わかりました。やります」と言ったこと。

私の本来の性格では、準備万端にしてからやりたいのに、突然のオファーに手をあげたり、引き受けたりしている。
すると周囲の人たちは「あの人は積極的な人だ」とか「あの人はなんでもこなす器用な人だ」」と言う見方をするが、実は全くそうではない。
質問も必死で考えて、なんとか質問をしているし、受けた仕事は徹底して準備してなんとか間に合わせているだけに過ぎない。

では、そもそもなぜ思ってもいないことをやるのか?

この点について、生徒さんたちにも自己分析を徹底して教えてきたし、実際に自己分析はかなり得意な方だと思っているが、よくわからない。
あえて言うとしたら、相手が困っているのを助けたいと言う気持ちがどこかにあるからだろう、と思う。困っている人を放って置けない、という感じ。
ただ、「本当にそれが理由なのか」と言われると、100%の確信は持てない。
しかし、引き受けたこと、手を挙げたことを後悔していることはほとんどないし、むしろ自分の経験値が上がったくらいなので、それでよかったのだろう。

ここで、思うのだ。

自分のことを100%理解するのは、不可能だ、と。

最近もあることについて、しばらく考え続けているのだが、これも最初は直感で突き進むくせに、ある程度まで行くと、または不安要素が出てくると、直感ではなく思考で納得する理由を探し始める。これも、自分のくせだと思っているが、しばらく付き合うしかない。
でも結局直感は正しい、と言うことを学習しているので最初の通りに突き進んでいくのだろうと言う予感もある。しかし、ここでこの記事を書こうと思ったのは、「直感で動いている私を、私だと思っている人が案外多い」と言うことだ。

周囲が自分をどう思っているか、はあまり気にしていないのだが、「そんなイメージがある」と言われたことに、ハッと気付かされることがある。
そんな時、ある記事で「セルフイメージ」と言う言葉が、目に飛び込んできた。
自分が自分をどうイメージしているか、だ。
これが私は、あまり正しくないような気がしている。それよりも周囲の人たちが見ている私の方が本来の自分なのではないか、と最近思い始めたのだ。

元来の人見知りだと思っているが、周囲は全くそうは思っていない。
元々ネガテイブだと思っているが、周囲はメチャクチャポジテイブだと思っている。
元々不器用だと思っているが、周囲はとても器用な人間だと思っている。

これらは一例に過ぎないのだが、そろそろセルフイメージを変えていいんじゃないか、と思い始めている。
さらにこれらは、自己分析で気づいたことではなく、周囲から気づかされたことだが、実は周囲の見方が正解なのかもしれないと思っている。
自分が自分をどう評価するかは、勝手にやっていいのだから、別にここに書かなくても、シラーっといつの間にかセルフイメージとやらを変えていけばいいのだが、言いたいことはそれではない。

「結局自分のことなんて、一生理解できないんじゃないか」と言うことだ。
完全に自分を知ることもできなければ、完全に自分をコントロールすることもできない。
さらに人はずっと同じで、変化しないわけでもない。むしろ、常に変化し続ける。
だから、自分で自分はこんな人間だ、と決めつける必要は全くないし、それが否定的な見方なのであれば、その決めつけはとっとと手放したほうがいい。
それよりも自分を肯定的に見てくれている人の意見を、採用したほうがいいのだ。

そしてもう一つは、人は、いつ、何をするかわからないものだと言うことを、理解しておくこと。
この文章で思い出したことがある。
思春期真っ盛りの中学生の頃。
周囲に反抗期中の同級生たちが目立ち始めた頃、母が言った。
「あなたが何か悪いことをして、警察に捕まっても、私は「うちの子に限ってそんなことをするはずはありません」とか、絶対に言わないから」と。

つまり、親が知っている子供なんてほんの一部にしか過ぎない、と言う意味だったのだろう。だから、何をしたとしてもおかしくない。
本当に悪いことをしたなら、矯正施設に入れられてもそれは仕方がない。
ただ、全面的に更生をバックアップする、と。

私が反抗期で何か悪いことをしそうに思っていたのかもしれない。
しかし、それを親が止めようとしても、コントロールしようとしても、無理だと
言うことを知っていたのだろう。
子供は親に全てのことを話してはいない、と言うことも知っていたのだろう。

これと同じことが、自分自身に対しても言えるのだ。
自分が知っている自分が全てではない。
何歳になっても、実はまだ眠っている自分がいたり、または朝起きたらスパッと違う自分になっている可能性もある。
今朝も、予約していたジムのレッスンを、今日は行きたくない、と思ってキャンセルして別のことに時間を使おうと思って起きた。

「予測不能」

自分のことは、このくらいに思っていてちょうどいいんじゃないか、と思い始めている。
そのほうが面白いし、どんな自分でもOKだし、それを楽しめばいい。
これを書きながら、一つのことを決断した。
うん、そう。多分、そう。
そんなことを自分に言い聞かせながら。

その時その時に、思ってもいなかった言動が出てくるのは悪いことではない。
それはむしろ吉兆の表れではないか、とさえ私は思っている。


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