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この不確実な人生を

孤独を感じたとしても、
実際に孤独であったとしても、
私たちは自分の味方でいることはできる。

ふと今朝好きなエド シーランの歌を聴きながら、思った。

「こんな不確実な時代に、こんな不確実な世の中で、こんなに不確実な一生というものを歩いている人間って偉い」と。

寿命さえも知らされていない。
自分の最期の様子も知らされていない。
どんな病気になるのかも知らされていない。
どんな人と出会い、どんな出来事に出会うのかさえも
知らされていない。

「だから面白いんじゃないか」と言う人は、本当にポジテイブな人か、
今絶好調の人か、
苦労の末にポジテイブになった人だ。

当たり前に考えれば、わからないことばかりで生きていくと言うのは、地図を一切持たずに初めての場所を訪れるようなものだ。

今は地図アプリがあるが、それさえもなかったとしたら、どうするだろう。

人に聞いて教えてもらう
適当に歩いて、掲示されている看板を見ながら歩く

しか思いつかない。
でもこの地図なしで歩いている間は、不安で仕方がないだろう。

それを、私たち地球に生まれた人間は、全員やっていることになる。
どこまで歩いても、一旦目的地についても、そこで終わりではない。
目的地で死ぬ人はほとんどいないからだ。

そうして、また次の目的地を定め、歩いていくのだ。

これを、生まれて20年やっているだけでもすごいが、私は、自分がこれを60年もやってきていることに気づき、思わず感極まった。

自分を褒めたくて。
自分の頭を撫でてあげたくて。

自分だけは自分を知っている。
頑張っていることも、サボっていることも。
それをひっくるめて、まとめて、自分だけは自分の味方でいられる。

例え自分のことが大嫌いな人でも、この「先の見えない一生」を生きているだけで、褒めていいと思う。

私たちは地図を渡されていない。
もちろん、ある時自分の地図を思い出す人もいるだろう。
ただ個人差はあるが、一定期間は必ず不安なまま歩いているのだ。
歩くのをやめていない、ただそれだけで自分を褒めていい、と思えたのだ。

もちろん不安なだけではなく、心から笑い、心から喜び、魂が震えるほど嬉しかった日もある。
それと同じくらい、心から悲しみ、心から落ち込み、魂の存在を忘れてしまうほど、途方に暮れた日もある。

それもひっくるめて、生きている価値だとは、私は言い切れない。
あの悲しみを、あのどん底を忘れていないから。
だからこそ、そこから生き延びて「よく今まで生きてきたね」と自分を認めることはできる。

ささやかな生活でもいい。自分が心から気に入った生活ならば。
その中で今目標を見つけ、それに向かって歩いていくことを決心した私は、さらに褒めていいと思える。

私たち、地球人全員、1年で1日だけでも思いっきり自分を褒めてみようではないか。


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