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好き、は別格


あなたにもきっと、「好きで好きでたまらないもの」があるだろう。その好きなものとの時間は、何にも変え難く、たとえ何があっても、その好きなものを手放したくはないだろう。

もちろん、気が変わって突然それが嫌いになることもあるかもしれない。一方で長く続いている趣味のようなものもあるかもしれない。

私にとって「読むこと」と「書くこと」は、子供の頃からの「好きなもの」の一つだ。

最初は、「読むこと」しかできなかったが、学校で作文を書いたり、読書感想文を書いたりする機会が増えてきても、決して嫌ではなかった。夏休みの宿題で、「読書感想文」を嫌がる人は多かったが、私は本を読むことも、感想を書くことも好きだったので、全く苦にならなかった。

インターネットとスマホがない子供時代を送ると、昼間友達と外遊びをする以外の、家にいる時間は、退屈でしょうがない。テレビ全盛時代ではあっても、子供向けの番組は限られる。やがてアイドルにハマっても、せいぜいお小遣いでアイドル雑誌を買って読むくらいだ。

漫画も親はあまりいい顔をしなかったので、友達に借りて隠れて読むくらいだ。そのほかの空いた時間で、習い事のドラムの練習をしたり、リコーダーを吹いたりしていたのを思い出す。

週末、父親が運転免許を取ってからは家族旅行に出かけたが、車に乗っている時間も暇だった。車の中で本を読んでいて、気分が悪くなったこともあったが、あれも暇を潰そうとしていたのだと、今は思う。

そんな時代に子供時代を送ってきたが、本を読むことが好きだったおかげで、母親が買ってくれた百科事典、母親が読んでいたであろう、ロシア文学は、目についたものから次々に読んでいった。内容はあまり覚えていないが、暇は潰れた。やがて、読書好きだと知った母は、「本だったらいくらでも買ってあげる」と嬉しいことを言ってくれたので、明治の文豪と言われる人たちの本を買ってもらい、次々に読んだ。もし、あの時スマホがあったら、私はここまで本好きにならなかったのかもしれない。暇を潰すために、本がたまたま好きだったから読み続けて現在に至っているだけなのかもしれない。

その後も本好きは変わることはなく、やがて「自分もこんな小説を書きたい」と思える小説に出会い、「書くこと」を始めていく。もっと早くに、片手間でもいいから書いていれば良かった、と思うことはしばしばあるが、仕事が案外面白かったこと、充実感も感じていたことが、書くことに集中できなかった理由なのかもしれない。

人生の流れで、仕事を一旦手放した時、思いっきり書いてみようと思い立ち、実際に実行に移して半年が過ぎた。

今までに公募に出した数は、9作。このうち小説は、2作でそれ以外は旅行記やエッセイ、短文だ。公募には出さず、noteに短編小説として公開しているものは、6作。
こうして数えてみれば、半年間で結構な数の作品を生み出しているな、となんだか嬉しい。

そして、公募の結果が少しづつ出始めていて、昨日旅行記が2次選考にさえ残っていないことがわかった。その時の気持ちは、案外揺れなかった、というのが正直なところだ。
残念ではあるが、20万字にもなってしまったので、(既定では10万字以上であれば応募可)多すぎたな、というのもあるし、独特の視点すぎて一般的ではなかったな、と感じてもいたので、「まあ、そうだろうな」と思っているからかもしれない。

そして、この選に漏れたことをSNSで友達限定で伝えたところ、友人から慰めの言葉が書かれていた。
その内容は、「とにかく書き続けることが大事」というものだったが、それを見て気づいたのだ。

「書くのをやめるという選択が、全くないな」と言うことに。
なぜなら、「好きで書いているから。好きは止まらないし、終わらない。好きは、特別だから」だ。

おそらく世の中の作家の方々も、元々は「好き」から始まっているから、ずっと書き続けることができるのだろう。「お金を稼ぐため」と思ってやっていたら、多分今の時代よほどの売れっ子にならない限り、他の仕事をしていた方がいいだろうし、実際に書くのをやめて他の仕事に変わっていくのかもしれない。

しかし、そもそも「好き」で書いているので、たとえ公募に何度落ちても、自分の中に書きたいものがある限りは、書いていくだろう。あとは、それが世の中で認められるかどうか、ということだが、これにはある程度戦略もあるだろうと思い始めている。

ただ、戦略を立てて入賞を狙って作品を書いていく、ということを、私が本当に求めているのか、は、だんだんわからなくなってきたのも事実だ。
なぜなら案外、書いていることで満足しているような気がするからだ。つまり「書くことが好き」が、書くことで満たされているのだろう。

この発見も、書き続けたからこそわかったことだ。そして、私にはまだ書きたいことがある。それが尽きてしまうまでは、きっと書き続けるだろうと思っている。

人生には流れがある。
その流れには逆らえないものなのだ、と言うことを、あのパンデミックで嫌というほど学んだ。そして、私はまだ生きているので、その流れの中にいることは間違いない。

その流れの中に、公募に入選することが含まれているのかどうなのかは、誰にもわからないし、コントロールできるものでもない。
唯一コントロールできるのは、「書き続けるということ」だけ。
その唯一コントロールできること、すなわち「書く」ことを続けていくに違いない。

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