すべては学び
ここ最近、嫌だなと思うことが続いた。
直接的な被害があるわけではないが、嫌な気分になった。
なんでこんなことが起きるんだろう、と考えた時、一つの答えが見つかった。
「何事もない日のありがたさをわかるため」
にあったのかもしれない。
日々幸せだなあと感じることが、圧倒的に増えていた。
引っ越しを機に、それは増えていった。
ただ昨年は父が亡くなり、間も無く一年が経とうとしている。
それでも、父への思いを再確認できたし、感謝も溢れて、人としての面白さも、
父の孫である娘と良く話をしているので、永遠の不在を感じて寂しさに浸る時間は少ない。
もう一度会ってちゃんと話したかった、とは思うが、これも運命なのだろうと思う。
その「なんでもない毎日」がどれほど幸せなのか、に気づかせてくれる「嫌なこと」なのだろう。
しかし、どんなに嫌な思いをしても、
色々あっても
最後は全て無になる。
なんと人生は素晴らしいのだろうか。
以前の私は、死ぬのが怖くて仕方がなかった。
「終わりがあるから美しい」
と言ってる人の気持ちや考えは全く理解できなかった。
中学2年の頃に最初に死を間近に感じ、怖くなった。
夜中に考え始めると眠れなくなった。
その翌年祖父が亡くなり、初めて火葬場に行き、
ますます死ぬのが怖くなった。
それが今、終わりがあるから美しいと思えるようになった。
受験勉強も終わりがあるから頑張れる。
就職活動も、骨折など完治がある程度保証されているケガなども、育児も、介護も終わりがあるから頑張れるのだ。
人生も同じ。
終わりがあるから、今のうちにやっておきたいことをするし、会いたい人には会いに行くのだ。
逆に言えば、やりたくないことはさっさと辞めて、
会いたくない人には会わない。
行きたくないところにも行かない。
好きなことができている瞬間、人は美しい。
その瞬間をつないでいけば、本人は後悔がないし、
周りで見ている人は、美しいと感じるだろう。
終わりの美学
にふさわしい生き方をしたい。
そんなことを思う年頃になったのだな、と嬉しく思う。
若い頃には、私には全く想像もできなかった境地だから。
そして、昨日は連続するレッスンを終え、「1人作戦会議」のため、ペンとノートを持って、カフェに行った。
ノートには次のことを、思うままに書いた。
やめること
続けること
新しく挑戦すること
「あまり考えずに、ペンが動くまま書いた」感じだった。
すると「やめること」に大きな決断が入っていた。
ただ、決断するだろうことは予測していたが、いつなのかわかっていなかった。
度々メッセージはちゃんとやってきていた。形を変えて。
そして以前決断できなかったことを思い出した。
「あの時決断していたら、どんな人生だったのだろうか」
と思うことはしばしばある。
今回はそのタイミングを逃さず決断できたので、実行に向かって歩き始めた。
「続けること」は、書いてて「やっててもいいな」と本当に思えるものだけを書いたが、まだ無理してることもあるので、「やめること」にいくつか移行するだろう。
「新しく挑戦すること」
は、ワクワクするものしか入ってない。
この挑戦をするために、一つ一つ準備をする予定だ。
人は変わる。
人生も変わる。
それは本人が望むというより「そうなってる」という感じだ。
そうなってることを、自分で邪魔しないこと。
今回は邪魔せず、流れに乗れそうな気がしている。
それでも全てはいつか終わる。
終わりの日まで、メッセージを受け続けて、人生を楽しもうと思っている。
まさに「転換期」真っ最中だ。
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