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余白は自由


最近、「余白」という言葉が頭から離れない。

先日、「Perfect Days」という映画を見た。
主人公平山の部屋は、古びたアパートの1階と2階だ。と言っても、一階は台所と洗面所を兼ね、物置となっている。
主部屋の2階には、全く物がない。家具の一つさえなく、作り付けの低い棚があるだけだ。

布団を上げてしまえば、6畳の畳の部屋が残るだけ。
いつでもスッキリしている。
好きなように使える。

さらに、この映画自体が余白に溢れている。
「多分、こんな生い立ちなんだろう」
と感じさせはしても、決定的な場面はない。
さりげなく、匂わせるだけ。

だから、全てが「わかった」というわけではないので、常に答えを教えてもらうことに慣れている人には、納得がいかない部分が残るのだろう。
実際に、そのような映画評を書いている人も見かけた。

私はこの映画が大好きだ。
それはこの余白で、自由に想像を巡らせることができるから。

そう、自由は余白があるからこそ、与えられる。
観客が自由に考える余白があるからこそ、芸術なのだ、とおぼろげながら感じたあの日を思い出す。

大学入学したての頃に、初めて見たピカソの絵。
意味なんて求めてはいけない絵だ。
だからこそ、見る者は感性を野放しにして、全身で感じる自由を与えられていると感じたことを。

同じく学生時代に、大島 渚監督の「戦場のメリークリスマス」を見た時も、「余白」を感じていたことを。
意味や、明確なメッセージはない。
ただ、その瞬間瞬間を切り取って、時に激しく、美しく見せただけに思えた。
だからこそ、観た者が勝手に思いを巡らせることができる。
そして、これが「芸術」なんだ、と感じたことを。

自由に慣れていないと、自由を楽しめず、恐れる。
生まれたばかりの頃は、誰でも自由だったのに、だんだん正解や、答えがわかっているものに囲まれる方が、安心するように仕上げられていくのだ、と、今はわかる。

社会で生きていくための処世術から、一時的にでも離れることができるのが、芸術の世界。
生きていくのに食べ物が必要なように、映画、音楽、小説、絵画などは、忘れていた余白を思い出させ、縛られた心を解放してくれ、取り戻してくれる。

だから今日も、音楽を聴き、小説を読み続けていく。
あえて言うとすれば、それが答えであり、正解なのかもしれない。


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