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哲学者に並んだ、と思った時

結局大事なことは一つだけ。
自分が思う通りに生きること。

これを書いてしまったら、占い師も、コンサルもカウンセリングも、人生相談も何もいらなくなる。
悩みさえも、あっという間に消えてしまう。
それほどシンプルで大事なことは、「自分が思う通りに生きること」だ。

どんなに世の中が複雑になっても、デジタル化されても、人間はアナログなままだし、死ぬ確率100%を変えることはできない。
産まれてくるのも、女性にしかない子宮の中で10ヶ月間育って、産道を通って産まれてくる。
出産方法は増えたが、10ヶ月の子宮滞在は変わらない。
だから、いつの時代も「自分が思う通りに生きる」が正解なのだ。
ところが、自分が思う通りに生きられない、ことがある。
周囲の反対や、環境、タイミングなどだ。
でも、どんなに反対されても、どんな環境でも、何か自分の思う方向に進む方法はある。
それを探して、少しづつ自分が思う通りに生きる方向に向かえばいいのだ。

その過程でいろんな人に出会い、いろんな出来事を経験し、喜怒哀楽全てを味わうだろう。それが人生というものらしい、と最近気がついた。

高校生の時、太宰治の「人間失格」など、明治の文豪の本を読み漁り、自分の生き方、将来について考えていた時期がある。
誰一人残らず、最後は死に向かって生きていると感じてからずっと生きる意味、産まれてきた意味を考えていた頃だ。
ネガテイブに考えれば、どこまでも深い闇に堕ちていきそうだった。

生きるヒントが欲しいと思って、哲学科を受験しようかと思ったこともあるが、哲学書を読んでいて、哲学者も生きているうちにこれらの本を書いているが、死んで生まれ変わって、本を書いた人はいないので(キリストは本を書いてないと思う)結局哲学者さえも人生について答えは出ていないんだ、とわかった時、「じゃあ、自分で紆余曲折を経験し、七顛八倒しながらも生きて、自分なりの答えを出そう」と決め、別の進路に決めた。

その後確かに紆余曲折があり、あらゆる経験をし、今がある。
「自分の思う通りに生きる」ために手放したものもたくさんあるが、結果的に経験したかったことも経験している。経験する予定がなかったものが、突然降りかかってきたこともあるが、それでも自分の思う通りに生きようとしてきた。自分の思う通り、がわからなくなって迷ったこともあったが、最終的にまた自分の思った通りの道に修正している。

自分の思う通りに生きようとすること、生きることで、間違いなく幸福感を感じている。
例えいろんなものを手放しても、周囲とは違う生き方になって変わり者だと思われても、私はこれが幸せなのだ。

大事なことは、「自分が思った通り」とはなんなのか、それを知り、それに向かい、その道に自分を乗せることなのだと思う。もちろん、何か違うな、と思うこともあるだろう。
悩むこともあるだろう。わからないと思うこともあるだろう。
それでも自分が思った通りの道に、いつか辿り着くように生きる。

その過程で経験したこと、味わった感情が、自分という人間を深く、豊かにしてくれるのだと思っている。悩んだら、悩む人の苦しさがわかるし、苦労したら、苦労している人の気持ちが実感できるし、お金がなければお金がない人の気持ちがわかるし、そこから抜け出そうと必死になるに違いないからだ。

あくまでも「私にとっての正解」だが、人生後半になってこの答えを自分で見つけられたことは本当に嬉しいし、なんとなく哲学者に並んだ気がしている。(恐れ多いのは、十分承知だが、臨床の場から見つけた答えだ)

老いも若きも、みんな自分が思った通りに生きればいい。

これが私が紆余曲折を経て、あらゆることを経験して見つけた答えだ。


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