本田宗一郎_藤沢武夫

藤沢武夫〜本田宗一郎を「世界のHonda」にした男

あの人の話を聞いていると、未来について、はかりしれないものがつぎつぎに出てくる。それを実行に移していくレールを敷く役目を果たせば、本田の夢はそれに乗って突っ走って行くだろう、そう思ったのです。

(本田宗一郎著『本田宗一郎 夢を力に』)


これは、藤沢武夫が、
かの本田宗一郎との出会いを語った言葉だ。


1954年。
敗戦の瓦礫の中から生まれた町工場を後に世界的大企業に育てる男たちの出会いである。


藤沢武夫は、
ホンダのNo.2として、実質的に経営のすべてを取り仕切った。

社員から"オヤジ"と慕われた天才エンジニア・本田宗一郎は、
社長でありながらホンダの経営にはほとんどタッチしていない。

ホンダの実印と経営の全権を藤沢武夫に託していたからだ。


本田宗一郎お気に入りのネタは、
「おれは一度も会社の実印を見たことがない」
というものだった。

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藤沢の使命は、
宗一郎を始めとするホンダの天才エンジニアたちが磨き上げた技術を世に輩出することだった。

藤沢は、自著の中で、

大きな夢を持っている人の、その夢を実現する橋がつくれればいい。いまは儲からなくても、とにかく橋をかけることができればいい。

(藤沢武夫著『経営に終わりはない』)

と述べている。


実際、
宗一郎は、算盤勘定のできない"生粋の技術屋"だった。


藤沢と出会った時、
宗一郎が開発したオートバイ「ホンダドリームE型」は飛ぶように売れていた。


その一方で、
代金をうまく回収できず、
宗一郎の工場の資金繰りはどんどん悪化し、倒産の危機に瀕していた。


そんな際、
知り合いから紹介された経営に強い人物が、
藤沢武夫だったのだ。


(本田技研工業(ホンダ)創業時の本田宗一郎と藤沢武夫)


出会いの瞬間から意気投合した2人は、
“技術の本田社長、販売の藤沢専務”として、
ホンダを成長させることを誓い合う。

宗一郎は、

「技術については口出ししないでくれ。その代わり、俺はカネのことは口出ししない」

という約束を藤沢と交わした。


その後、
オートバイ「スーパーカブ」の大ヒット、
オートバイレース「マン島TTレース」での優勝、
鳴り物入りでの4輪自動車への参入、
排気ガス規制「マスキー法」を世界で初めてクリアした伝説的車種シビックの発売
などの輝かしい歴史を通じ、
HONDAが世界的企業に成長していくのは、
日本人なら多くの人が知るところだろう。

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だが、1973年、
2人の天才は、栄光の表舞台から突然身を引くことになる。


原因は、
エンジン開発における若手エンジニアたちと宗一郎の論争だった。


この伝説的引退劇の引き金となった「マスキー法」は、
アメリカ議会を通過した1970年当時、
どのメーカーもクリアすることが不可能と言われた排ガス規制だった。


HONDAが4輪自動車に参入したのは1963年。


当時、まだ駆け出しの2流メーカーと目されていたホンダは、
技術力を世界に示すため、
マスキー法をクリアするエンジンの開発に社運をかけていた。


燃費向上のためには、走行中にエンジンを冷却し続けなければならない。

当時、ホンダのエンジンは空気による冷却方式で、
高い技術力と実績を誇っていた。


当然ながら、
宗一郎はこの空冷式でマスキー法をクリアするエンジンを開発しようとした。


しかし、
宗一郎以外の若手エンジニアたちが導き出した仮説は、
無情にも、
「空冷式は時代遅れ、これからは"水冷式"の時代だ。」
というものだった。
(事実、現在では"水冷式"が主流。)


空冷式にこだわって失敗し続ける宗一郎を藤沢が説得し、
1972年、
ついにホンダは"水冷式"でマスキー法をクリアするエンジンの開発に成功する。


名だたる世界的メーカーたちを抑えての世界初の偉業だった。


これが、世にいう「水冷・空冷論争(息子たちの造反事件)」である。


「あなたは本田技研の社長としての道をとるのか、それとも技術者として残るのか。どちらかを選ぶべきではないか」

藤沢は、宗一郎にこう迫ったという。

しばらくの沈黙の後、
宗一郎はいった。

「俺は社長をしているべきだろう」


藤沢が、"相棒"との誓いを破り、
「技術」という聖域を初めて犯した瞬間だった。

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古い技術にこだわる宗一郎は、
新しい技術の可能性に気がつくことができなかった。


そして1973年、
"世界最高の技術者"と彼を支えた"名参謀"は、
2人揃って引退を表明することになる。


本田の引退劇を解説した日経新聞の言葉は秀逸だ。

「ひとりの天才が生涯天才であり続けることはありえない。かんじんな時期に天才として大きな事業や発明を実現するにすぎない。まして、自動車をめぐる技術はすさまじい勢いで進んでいる。天才、本田宗一郎もその盛りを過ぎたことを示す象徴的な出来事だった。」


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ご存知のように、
本田宗一郎と藤沢武夫が引退した後も、
ホンダは世界的大企業への階段を登り続けた。


本田宗一郎と藤沢武夫が組んで初じめての大ヒット作・オートバイ「スーパーカブ」は、
今や全世界通算で1億台が製造された「世界で最も多く製造されたオートバイ」である。

(スーパーカブを開発した本田宗一郎と"息子"たち)

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後編『拝啓 本田宗一郎様、藤沢武夫様』(公開できてません!)では、
経営の天才・藤沢武夫が、エンジニアのために創った独創的な組織の仕組みと、
今やかつての輝きを失ったホンダについて解説したい。


本田宗一郎と藤沢武夫がホンダにかけた魔法と呪縛とは。

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