ありし栄光
「この模試は全員受験ですから。」
「どうしてなのか、その理由を教えてください。」
ベテラン教師Hに飛ばした質問で場が凍った。進路指導室のテーブルを囲う10名は、それぞれに硬い表情をしている。数秒だが、完全に沈黙した。曇った表情を見せたのちに頭を下げ、この空気をどのように収めるべきか考え始める中堅教師もいる。
「なぜ、この模試が全員受験でなければならないのか、その根拠を示していただきたい。」
勤めはじめて3年目の新米教師Aは身を引かない。
学習に意欲的でない生徒にとって、自称進学校で行われる全員模試は「できない」感覚を植え付けられる、最も酷な時間となる。例えば数学。数学を苦手とする、しかも、特に進学を希望していない輩にとって、100分の試験は机に座り続けるだけで、なんら意味を見出すことができない。部活に参加して、汗を流した方がよっぽど充実した生活になるというものだ。
この状況をどうにか改善したいという気持ちが、彼にはあった。しかし、それ以上に、単に疑問だった。なぜ、このような「自称」進学校が全員模試を受け続ける必要があるのか。
Hは答えた。
「進学校で、模試を受けない学校なんて聞いたことありませんよ。これは普通のことです。それに、この制度が変わることなんて、100%ないです。」
論理的でない回答に、Aは狼狽えた。
高校教師というのは、地方とはいえ、世間が認識するよりもやや難しい試験を乗り越えなければ就けない仕事だ。教える教科の専門知識はもちろん、一般教養や教育心理、法律などが試され、一定の水準をクリアしなければ合格の文字を拝むことはできない。さらに、場面指導といって、生徒が起こす諸問題に対応する能力をみる試験もある。感情的にならず、冷静に状況を判断し、生徒にとって最も効果的な指導になるよう、計画的な言動を心がける訓練は欠かせない。
Aは、試験を受け、合格を得た。
もちろん、この場にいる全員が、同じような試験を通過してきた。
何がHを頑なにしているのか。長いこと、自分と同じように制度に抗ってきた結果なのか。
Aには、母校を地域の進学校として永久保存したいという、私的欲求に基づく発言としか受け取れなかった。
「生徒の中には、模試を受けて意味のあるものもいます。しかし、試験中の様子を見るに、半数以上の生徒は開始10分で問題を読むことすら中断し、睡魔に襲われている。模試の意義を教えてください。」
自然、Hの方へ視線が集まる。
「逆に、どうして全員受験をやめようという発想になるのかわかりません。模試を受けることで、短い範囲を試す定期考査とは違って、今まで習ってきたことをきちんと復習できているかどうかを確認する機会になるし、それによって自分の勉強方法を改善することもできますよね。進学に必要な姿勢を手軽にチェックできる、こんなに便利なツールがあるというのに、どうして受けないという話になるのか、私にはわかりません。」
「それはきちんと学習できている生徒に限ると思います。私が問題提起しているのは、そのような生徒がこの学校に半数もいない、という事実の上に立っています。」
「模試を受けることで、その姿勢も変わると言っているのです。それに、何度も言っているように、私たち一般教員が、この制度を変えることはできません。」
Hは目線を合わせない。Aは考えを改め、今回は議論をすべき場所が確認できれば良いとした。
「なるほど。では、誰が決定するのですか。」
「校長です。」
地元出身の部長Lが答えた。
「校長が決めるので、我々末端が議論しても、はっきり言って無意味です。」
しかし、Aは知っている。慎重に、ゆっくりとその場の全員に伝えた。
「実は先日、校長と面談の機会がありました。」
言葉を間違えないように、少し息を吸った。
「そこで、模試のあり方についてどこで議論すべきか質問しました。校長は「進路指導部です」と言っていました。」
一同に、動揺が走った。Hは口を大きくあけ、目を見開いている。
「それはあり得ません。」
Hの言葉に続け、Lも補足する。
「校長がそのように自分の仕事を放り投げるのはおかしいですよ。常識的に考えて、他の学校でも受けている代表的な模試を、進学校の我々が受けないなどということはあり得ないです。面談で、校長は確かにそう言ったのですか。」
「はい。」
そもそも、校長は職員の代表であるから、模試のあり方を決められない。むしろ職員の多様な考えをまとめ、それを所属庁に報告し、上で議論の場を作るのが校長の責務である。
「とにかく、私たちがどう動こうと、制度は変わりません。」
議論はしない。そういうことだと、Aは悟った。
Hは地元の、それも、この高校を卒業した土着の民だ。一方でAは、今年赴任したばかりの新米で、それも数年で僻地を去ることが約束されている。
部外者には変えさせないと言われている。
「では部長、来月になっても構いませんので、この件について誰が決定権を持っているのか、それだけはっきりさせていただけませんか。」
「わかりました。今週末、管理職含め各主任が集まる委員会がありますから、そこで今回の質問を投げてみます。」
Lは簡単に場をまとめ、会議を閉めた。
Aは、その後も繰り返し確認を求めたが、回答は半年経っても返ってこなかった。
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