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短編小説『未来の自分』①夏休みの図書館

 夏休みが始まって、一週間が経った。

 その一週間の間に夏休みの宿題を全て終わらせた僕には、残りの期間を優雅で快適に過ごすことができるのだ。

 そして記念すべき『宿題解放日一日目』が今日。
7月28日、水曜日、時刻は午前9時36分。
よく晴れた青空の中で、白い雲が散在している。
辺りに響き渡る蝉の声は、騒々しい夏の朝を象徴しているかのようだ。

 半袖のシャツに短パンを履き、ショルダーバッグをかけた僕は、石畳の敷かれた街路を歩いていた。
そして額にはうっすらと汗が浮かんでいた。

 宿題という義務を果たし、高校の部活動は今日は休みで、日中は特別これといった予定もない。

 だが今日みたいな日でも、朝から無遠慮に鳴き続ける蝉の声と強烈な夏の暑さに苛まれて、否が応でも僕は早い時間にベッドから起き上がらなければならなかった。

 家でクーラーの涼しい風を浴びながらテレビゲームに勤しむのも悪くないと思ったけれど、せっかく早起きしたわけだし、なんとなく外に出たい気分だった。

 そして読書が好きな僕が自然と足を運ぶ場所、それは近所の市立図書館になる。

 道の両側には歴史ある建造物が連なり、この小さな海辺の町がかつて城下町として栄えていたことを窺わせる。
実際、背後を振り返れば少し先にある城跡が、一際高い位置から町を見下ろしているのが確認できた。

 歩を進めるたびに、石畳の上に汗の滴が落ちていった。
容赦なく照りつける陽光のせいだ。

 自転車がパンクしているため、このように僕は図書館までの片道10分の距離を歩かざるを得なかった。

 市営のバスに乗車するという選択肢もあったけれど、省ける出費はできるだけ省きたいというのが、高校生である僕の切実な理念なのだ。

 とにかく、残り数分の距離だ。歩き続けるしかない。

 やっとの思いで目的の市立図書館にたどり着いた時には、息が切れ、額からは大粒の汗が流れ落ちていた。

 正面にあるのが、黄色いシンプルな造りの三階建ての建物。
これが本館で、向かって左手にある二階建ての木造建築の建物が、別館となる。
そちらでは主に児童図書を扱っている。

 僕が向かうのは勿論、本館の方だ。
図書館の周囲は緑の生い茂る木々に囲まれいるために、相変わらず蝉の声が鬱陶しい。


 自動ドアを抜けると、館内は冷房がしっかり効いており、とても涼しかった。

 先刻まで灼熱のような暑さの中にいたこともあり、急激な温度の変化に僕はすぐに対応できず、少し寒いくらいだった。
しかしこれなら汗はすぐに乾いてくれるだろう。

 一階は雑誌や新聞が配置されたロビーとなっており、その奥にレファレンスがある。

 レファレンスでは二人の女性が退屈そうな表情でパソコンに向かい、テーブル席には一人の年配の男性が気難しそうな表情で新聞を読んでいた。

 僕は階段を登り、大量の一般図書が収蔵された二階に上がった。

 二階には、人の気配はなかった。
開館時間は9時半で、僕がここに到着したのは9時40分過ぎだったから、どうやら一番乗りなのかもしれない。

 僕は物理学関連の書架まで歩き、その中からスティーヴン・W・ホーキングの『時空の大域的構造』という本を手に取った。

 その時だった。
奥に設けられた閲覧席で、一人の女性が頬杖をついて本を読んでいるのに僕は気がついた。

 僕は書架と書架との間の先から、テーブル席に座っているその人の姿にちらりと視線をやって、それが誰なのかすぐにわかった。

 高校の先輩だった。
セミロングの黒髪から覗くあの横顔は、間違いない、野上先輩だ。

 野上先輩は僕が所属している高校の科学部の先輩で、僕の一年上だ。
学年は僕が一年で、彼女が二年。

 野上先輩は明るく快活な性格で、見た目も特別美人というほどではないが、割に整った顔立ちをしている。
いつも気さくに話しかけてくれるし、僕は先輩と会うことが部活に行く楽しみの一つとなっていた。

 正直な話、僕は少しだけ彼女に惹かれていた。

 だけどそのことを誰かに伝えたことはないし、ましてや伝える気もさらさらなく、当然のように一学期が終了し、夏休みが到来した。

 科学部は夏休み中に週二回、活動することになってはいるが、顧問の先生は放任していて、参加は自主性という形となっている。
僕は一応、活動に毎回参加しているし、先輩も同じく参加していた。

 だから野上先輩とは夏休み中にも顔を合わすのだけれど、こうして学校外で彼女を見かけるのは初めてのことだった。

 彼女はTシャツにショートパンツというシンプルな格好をしていた。
無論、野上先輩の私服姿を見るのもこれが初めてのことだった。

 僕は少しの間、野上先輩の姿を見つめていた。

 先輩の横顔は、どこか少し憂鬱めいたような表情をしている気がした。
窓の向こうからの夏の淡い木漏れ日に照らされて、読書をする彼女の姿は、まるで映画のワンシーンのように印象的だった。

 僕の汗はすっかり乾いていたけれど、今度は心臓の鼓動が高鳴っていた。

 僕は意を決して先輩の居るテーブル席まで歩き、話しかけてみることにした。

「先輩、あの、おはようございます」
野上先輩は本から顔を上げて、僕の方を見た。「鈴江君じゃない、おはよ。どうしたの?」先輩は僕に突然話しかけれて、その口調は少し驚いているかのようだった。

「読書しに来たんです、家に居ても退屈だし」
「ここ図書館だもんね、そりゃそうだ」と先輩は少し笑って言った。
「珍しいですね、先輩と学校外で会うなんて」
「うん、ちょっと調べ物があってね」

「あの、、、ここいいですか?」僕は野上先輩の座っている向かいの席を指して、少し遠慮がちに言った。
「え〜、どうしよっかな〜」と先輩は悪戯っぽく言った。
「あ、まずかったですか」
「ふふ、嘘、嘘。どうぞ座って」
「ありがとうございます」と僕は苦笑しながら、野上先輩の向かいに腰を下ろした。

 普段は科学の実験中に、先輩とこうして対面して座ることは少なくないけれど、やっぱり慣れない。
何か、こう、彼女は僕には魅惑的に過ぎる気がする。

「それ、何の本?」
「スティーヴン・ホーキングっていう理論物理学者が書いた本で、内容は宇宙論についてです」
「うわ〜、相変わらず難しそうな本読むんだねえ」と先輩は言った。「さっすが、鈴江君ね」

「そんな、やめてくださいよ」と僕は苦笑した。「先輩は? 何読まれてるんですか」
「え、私の?」
「はい」
「、、、えっとね、これ、なんだけどさ」と先輩は少し気恥ずかしそうに僕に表紙を向けた。

 『未確認飛行物体の正体』というタイトルが、その単行本の表紙と背表紙には書かれてあった。
野上先輩がそんな本を読んでいるなんて、ちょっと意外だった。

「未確認飛行物体、いわゆるUFOについての研究ですか」
「そんな大層なことじゃないの。でも、どうしても知りたいことがあって」と先輩は言った。「鈴江君はさ、UFOって信じる?」
「う〜ん、正直なんとも言えないですね。案外、民間には公表されてないロシアや中国の軍事兵器なのかなって、考えたりもしますけど」
「ふぅん。鈴江君って、やっぱり変にリアリストなのよね」
「そうですかね」
「そうよ」と先輩は言った。「まあ、UFOの正体は一旦置いて、それがこの小さな町にね、実際に飛来することって、、、あると思う?」

「え、それはどうでしょうね、、、。でも、どうして?」
「どうしようかな、、、うん、鈴江君になら話してもいい気がする」と先輩は少し俯きながら小声で言った。
それから軽く深呼吸して、口を開く気配があった。

「私ね、今朝、見ちゃったんだ」
「見たって、、、まさかUFOをですか」
「そう」と先輩は頷いた。「私、今日さ、早朝の4時ぐらいに目が覚めちゃって、それで布団から出て洗面所に向かったのよ。洗面所には小窓があるんだけど、そこから家の小さな裏山を覗けるの。それで、ふとそちらの方を見たら、白い球体みたいなのが、ゆっくりと山の方へと下降していくのが見えたのよ。それを見たのはたったの数秒程度。直後に、その球体はそのまま真っ直ぐと山の中へと降りて行ったから」

 先輩の真剣な口調はとても冗談とは思えなかったし、嘘をついてるようにも見えなかった。
かといって、先輩が見たその白い球体が本当にUFOであるかどうかは、また別問題となってくる。

「例えば、それはドローンだという可能性はありませんか」と僕は訊いてみた。
先輩はかぶりを振った。「その可能性については私だって考えた。でも、あれはそんなレベルの大きさじゃなかった。もっとそれより大きくて、、、。そうね、観覧車のゴンドラくらいの大きさはあったと思う。寝起きだし、外は薄暗かったから凄く自信があるわけじゃないんだけど」
「ゴンドラか、、、。だとすれば、かなりのサイズになりますね」
「でしょう。そして自然に落下したって感じでもなかったのよね。意図的に下降していったって感じ」
「つまりは、操縦されている気がしたと?」
「断定はできないよ? でもそんな印象はあった」

 それだけの大きさで丸い形状の飛行物体、、、。
僕にはそれが何なのか一向に見当がつかなかった。
しかし、それは常識の範疇で考えればということだ。

「ねえ、これってUFOだと思う?」
「話を聞いているだけではなんとも、、、実際に見てみないことには」と僕は言った。「でも、本当にそれが正体不明の飛行物体だと仮定すると、先輩が目撃したのはその着陸の瞬間だという可能性は高いと思います」
「でも、どうしてうちの裏山なんかに、、、」

「それはわかりません」と僕はかぶりを振った。「先輩は、実際にその裏山まで探しに行かなかったんですか?」
「行かなかった」
「どうして」
「だって、さすがにちょっと怖いじゃない。もし宇宙人と遭遇しちゃったら、どうするの? 攫われちゃうかもしれないし」
先輩はこのように、少し子供っぽい一面も持ち合わせている。そして、そこがまた魅力的でもある。

「誰かに話す勇気もなかったのよね。佐織が変になっちゃった、なんて思われるのはまっぴらだし。だから今のことを話したのは、実は君が初めて」
「そうだったんですね、、、」
僕は野上先輩の『僕が初めて』という言葉の特別感を、ほんの少しだけ噛み締めていた。

「この話、信じてくれる?」と先輩は訊いた。
「ええ、勿論信じますよ」
「良かった」
先輩の屈託のない笑顔に、危うく僕は打ちのめされるところだった。
しかし、窓の外の煩わしい蝉の鳴き声が、寸前のところで僕を現実へと連れ戻してくれた。

「それで、、、結局のところ、先輩はその裏山に向かうつもりなんですよね」
「え、なんで分かるの」
「だって、そんな本を読まれてるってことは、先輩はきっとUFOに接近することへの危険性なんかを知りたかったんじゃないですか? どのみち調査に向かうにしても、ある程度の予備知識を仕入れておかなければ多少は不安。だからこうして、開館時間直後の図書館でそれについての調べ物をしている。事前準備というやつでしょうか」

 野上先輩は勤勉で堅実で慎重な性格なのだ。
まだ彼女を知ってから三ヶ月と少ししか経っていないものの、それくらいはなんとなく推察できる。

「うん、鈴江君の言う通り」と先輩は微笑んで言った。「やっぱりどうしても気になってね、ちょっぴり勇気出して、一人でも探しに行こうと思ってたんだけど」
「けど、、、?」
「良かったらさ、これから一緒に来てくれない? 私の家の裏山」
「いいんですか」

 僕は先輩の話を聞いて、かなりの興味を抱き始めていたのだ。先輩の見た未確認飛行物体の正体とは、一体何なのか。

「勿論。だって鈴江君、科学のことなら天才的だし、一緒だと結構安心かも」
「是非、同行させてくださいっ。必ず役に立ってみせます」
「やだ、頼もしい」と先輩は微笑んで言った。

 僕の気分は完全に舞い上がっていた。僕の興味の対象物に、二つ同時に接近できるのだ。野上先輩と、未確認飛行物体。
なあ、こんなうまい話があっていいのか?

「じゃあ、UFOの臨時調査チーム、ここに結成ね」と先輩は僕に右手を差し出した。
「はいっ」僕は先輩の右手を、強くなりすぎないように握り締めた。

 そんな僕の握手には、先輩の見た未確認飛行物体の正体を突き止めてやるという強い決意が込められていた。


 (つづく)

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