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『100個のお願い』(短編小説)

(あらすじ) 結婚したとき、夫婦はそれぞれ100個のお願いを紙に書いて、箱に入れた。誕生日には、その箱からお願いを一つだけ引いて、相手の願いを叶えてあげるのだ。夫婦にとって、願いごととは……



『100個のお願い』 上田焚火


 結婚した日、夫婦は一つの取り決めをした。

 それはお互いの誕生日にお互いのお願いを一つだけ叶えるというものだった。ただしそのお願いはクジ引きによって決められる。


 二人はまず二百枚の紙の用意して二人でわけた。つまりそれぞれの手元に百枚の用紙があるわけだ。その一枚一枚にそれぞれ相手に叶えてもらいたい願望を書く。それも百枚。二人は百個のお願いを書くのに一週間もかかった。


 誰だって結婚する相手にして欲しいことの二、三つはあるはずだ。人によっては七、八個。いや十個くらいならあるかもしれない。だが、百個というとなかなか出てこない。時間がかかって当たり前だ。だが、だからこそ二人はいいのだと思っていた。


 それにお願いというのは簡単にかなってはいけない。きっと百個のうち本当に相手に叶えてもらいたいことは、ぜいぜい十個ほどだろう。後の九十個はどうでもいいことが書かれている。だからこそ、どれが引かれるのか、楽しみがあった。


 とにかく百個お願いを書き終えると、二人はそれをすべて折り曲げて、箱に入れた。夫の箱と妻の箱だ。何が書かれているのか、お互いにそのことについての話は一切しなかった。


 そして二人が結婚して初めての誕生日が来た。それは妻の誕生日だった。夫はクローゼットの奥に隠していた妻の百個のお願いが入った箱を取り出した。箱はアルミ制の物で、煎餅が入っていたものだった。


 そのふたを開けると、夫はどきどきしながら、一枚目のお願いを引いた。
 ここで一つルールを説明しておくと、もし相手のお願いを叶えられなかったらどうするか、というものだ。二人の取り決めでは、相手の願望を一年以内に叶えなければならない。だが、様々な理由によって相手の願望が叶えられないときは、次の年は二つお願いを引かなければならなくなるのだ。


 夫が引いた一枚目の妻のお願いは、オシッコは座ってやって欲しい、というものだった。夫は、ほっとした。


「これ何番目のお願いなの?」
 夫は妻に訊ねた。
「さぁ、どうかしら。でも今日から一年間、家では座ってオシッコしてもらいますからね」
 妻は言いながら微笑んだ。


 結婚して半年、夫は男の沽券にかかわると、家でも立ってオシッコをしていたが、妻のお願いを叶えるために、彼はそれ以来、座ってオシッコをすることにした。そんな小さなお願いではあったが、妻はトイレ掃除が楽になったと言って喜んでいた。


 妻の誕生日から半年経つと、今度は夫の誕生日がやってきた。またもクローゼットの奥から箱を取り出した。二人で行ったディズニーランドで買ったクッキーが入っていたアルミの箱だった。彼はそのふたを開けると、妻の前に差し出した。夫は何が当たるかわくわくしていたが、反対に妻は何が書かれているのか心配でドキドキしていた。


 妻が恐る恐る一つの用紙を手に取った。四つに折られた紙を広げると、そこに夫のお願いが書かれていた。


「なにこれ?」
 妻は用紙を見つめながら言った。
「見せてくれよ。何を引いたんだ」
 紙を広げると、そこにはこう書かれていた。


 一緒にヤクルトスワローズを応援して欲しい、と書かれていたのだ。
「いいの引いてくれたじゃないか」
 夫の顔が喜びでほころんだ。一方、妻は渋い顔をしていた。妻は大の巨人ファンだったのだ。だから、いつも野球シーズンになるとふたりはぎくしゃくしていたのだ。


「この一年でいいのね」
「ああ、一年といってもシーズンは後三ヶ月しかないけど、一緒に応援してくれよな」
「はいはい」


 妻は、しぶしぶ承知した。妻が応援してくれたこともあってか、その年のヤクルトスワローズはリーグ優勝した。夫は妻に感謝すると、彼女の方もまんざらではないのか、次の年もヤクルトを応援してくれた。


 まぁ、こんな具合に二人は毎年のようにお互いのお願いを叶えていった。
 結婚して四年目の彼女の誕生日のお願いは、子供が欲しい、というものだった。彼もそろそろ子供をつくるときだと思っていたので、二人は妊活に励んだ。


 妻の排卵日には、残業せず、大好きなヤクルトスワローズの観戦もやめて、妻と一緒にベッドの中で過ごした。


 その甲斐もあって、半年もすると妻が懐妊した。だが、その年、二人の間に子供は生まれてはこなかった。妊娠三ヶ月ほどで流産してしまったのだ。


 落ち込む妻に、彼は、「大丈夫、大丈夫」と声をかけた。次の年も妊活に励んだが、子宮に着床してもすぐに流れてしまうという不運にみまわれた。何度かそんなことが続くと、
「もう子供はできないかもしれない」
 と妻は言って泣いた。


 快活で明るかった妻が、家に閉じこもることが多くなった。その後も妻は落ち込みから回復せず、ふさぎ込んでばかりいた。夜の営みも二人にはなくなっていた。このままではいけないと思った夫は、生まれて三ヶ月の柴犬を買ってきて、彼女にプレゼントした。


 妻は夫に内緒にしていたが、百個のお願いの中に柴犬を飼いたいというものもあったのだ。だが、それは言わないでおいた。妻は夫のやさしさにただただ感謝するだけだった。


 妻は、柴犬のことを「クーちゃん」と呼んだ。
「なんだよ。そのクーちゃんって名前。もっといい名をつけてやれよ」
「だって、私たち夫婦のマスコットなんだから、クーちゃんでしょ」
 夫は妻が何のことを言っていのか、さっぱりわからなかった。


「あなたって、そんなところが鈍感なのね」
 妻は夫をバカにするように言った。
「クーちゃんの本名は『シバ九郎』って言うのよ」
 夫はすぐに理解した。妻はヤクルトスワローズのマスコットである『つば九郎』から名付けてくれたのだ。夫は柴犬を抱きしめるとほおずりした。


「そうか、お前は『シバ九郎』かぁ。いいじゃないか」
「ちょっと、本名で呼ぶのはやめてよね。クーちゃんって呼んであげてよ」
「あっ、そう」
「そうよ」
「クーちゃん。大きくなるんだぞ。いっぱい遊んでやるからな」


 シバ九郎は、夫と妻の間でなくてはならない存在になった。休みの日に、二人はシバ九郎を公園に連れて行って遊んだ。ふさぎ込んでいた妻はすっかり元気になっていった。


 その年の妻のお願いは、モルジブに連れて言って欲しいというものだった。インド洋に浮かぶ島々からなるモルジブ共和国は、カップルが行くには最高の場所だ。


 妻はそのお願いのためにシバ九郎をペットホテルにおいて行かなければならないことに躊躇したが、せっかくのお願いなんだから、と夫は妻を強引に旅行に誘った。それはまるで二度目の新婚旅行のようだった。二人は再び愛し合うようになった。


 そのことがいい方向に出たのかもしれない。妊活をやめて二年が経っていたが、突然妻が妊娠したのだ。それでも夫婦は期待しすぎてはいけないと思っていた。だが、半年経っても子供は流産することなくスクスクと妻のお腹の中で成長していったのだ。


 そしてついに娘が誕生した。ふたりは大いに喜んだ。
 娘が生まれてからも、二人は、ずっと誕生日には百個のお願いから、ひとつを引いて叶え続けた。


 だが、結婚して十五年も経て、お願いはちぐはぐな物も出てきた。
 その年の夫のお願いは、人前でミニスカートをはかないで欲しいというものだった。妻は四十も過ぎて、既にミニスカートなどはかなくなっていたし、そもそもおしゃれをすることもなくなっていた。


 妻は夫にかかわることよりも、生活は娘の成長に対することばかりになっていた。
 妻は娘にちゃんとして欲しいと厳しくしていたが、夫はもっと自由に育ってほしいのか、妻がうるさく言うことに反対した。
 だが、それも少しのことで、夫は仕事が忙しく家族と過ごす時間はほとんどなくなっていった。


 娘がなんとか受験を乗りきり、第一志望の私立中学に入学した年、夫の転勤が決まった。場所は福岡だった。夫は妻と娘に一緒についてきて欲しかったが、妻は娘のことを考えて、夫には単身赴任してもらうことにした。
 その年の夫の誕生日に妻が引いたのは、一週間に一度デートする、というものだったが、福岡まで毎週のように行き来することなど物理的に不可能だった。


 夫婦は、月に一回会えるかどうかという感じになっていた。そのことで不満はないかと、妻は夫に訊ねた。
「大丈夫。今は俺も仕事ががんばりどころだから、しばらく会えなくても我慢するよ」と夫は言った。


 だが、実際はそうではなかった。夫は福岡で浮気していたのだ。
 妻は、ある日、夫に内緒で単身赴任先のマンションに行った。その日は妻の誕生日の前日だったこともあって、百個のお願いの入った箱を持参していたのだ。


 しかし、マンションに行くと、そこには若い女の姿があった。窓から見える夫と若い女の姿を見て、妻は慌てて逃げ出してしまったのだ。


 ショックの妻は、福岡空港のロビーで一晩過ごした。何も考えることができなかった。夫と女の様子から、今日昨日の関係ではないようだったからだ。全身から力が抜けていく思いだった。


 妻は、自分のお願いが書かれている箱を開けると中に入っている紙をすべてゴミ箱に捨てた。


 三ヶ月後、夫が東京に帰ってくると、妻は夫の前に百個のお願いが書かれている箱をさし出した。


「そうか、お前の誕生日は俺が福岡だったからな」
 そう言うと夫は一枚の紙を拾い上げた。そこに書かれていた文章を見て、夫はどきりとした。
 別れて欲しい、と書かれていたのだ。
「どいうことだ?」
 浮気がばれているとは思っていない夫は妻に言った。
「そういうことです」
「ちょっと待てよ」
 夫は、箱の中の紙の中身がすべて変わっているのに気がついた。


「よく考えたの」
 妻は、百枚も、別れたいと書いたのだ。
 妻の意志が堅いのを知ると、夫はそれ以上何も言わなかった。荷物をまとめると、シバ九郎の頭を撫で、娘には、またな、とだけ言って福岡に帰っていった。


 離婚が成立すると、夫は慰謝料と毎月の養育費を支払った。娘とは月に一度だけだが会っている。


 五年が過ぎた。元夫は、若い女とは別れ、その後は誰とも付き合っていなかった。それは元妻も変わらなかった。二人は直接会うことなく月日が過ぎていった。


 その後、元夫は東京の本社に戻ってきて、会社を定年退職した。
 その年、元夫は娘から彼氏を紹介され、その彼氏から、娘さんと結婚させてください、と言われた。


 元夫は自分の娘が結婚する年齢になったことに驚いていた。娘はすでに母親にも紹介しているらしく、父母一緒に式に出て欲しいと言った。
 元夫は、元妻と会うことに躊躇したが、元妻の方は気にしていないようだ、と娘が言った。


 娘の結婚式の席で、元夫は久しぶりに元妻と再会した。お互いに年を重ねた。皺は増え、髪は黒いところよりも白いところの方が多くなっていた。
 式が終わると、元妻は元夫を喫茶店へと誘った。いろいろあったが、年を経て元妻は元夫のことを許しているようだった。それに二人の愛の結晶である娘の結婚を真に祝えるのは、自分以外に元夫しかいないと思っていたのだ。


「いい式でしたね」
 元妻は元夫に言った。
「ああ、本当にいい式だった」
 元夫は、娘が式に呼んでくれことを今更ながら感謝した。
「実は私、家の中を整理していたら、こんな物が出てきたの」
 元妻が鞄から取り出したのは、元夫の百のお願いが書かれた紙が入っている箱だった。長い間にその箱もさびてしまっており、ところどころ塗料がはげていた。


「まだこんな物があったのか」
 元夫は箱を持ち上げると、中を確かめるように振ってみた。がさごそと紙の音がする。
「離婚するとき、私のお願いだけを聞いてもらったじゃない。あなたのお願いだけ、ひとつ少ないのよ」
「もうそんなことはいいじゃないか」
 元夫は言った。
「よくないわよ。私もあなたももう長くないんだから、心残りは少しでもなくさないと」
「・・・・・・」
 元夫は、元妻が何がしたいのかわからないかった。
「だからね。ここであなたのお願いを一つだけ、引かせてもらうね」
「・・・・・・」
 好きにすればいいと、元夫は思った。


「じゃあ、引くね」
 元妻は、堅くなった箱のふたをなんとか開けた。古く黄ばんだ紙がまだ中にいっぱい入っていた。
「どれにしようかな」
 元妻は迷っているようだった。
「どれにしたって、今更・・・・・・」
 元夫はあきれ声で言った。


 元妻は思い切って一枚紙を拾いあげた。そしてゆっくりと紙を開いた。
 元妻は、紙に書かれた内容を読むと、ふふふ、と小さく笑った。そして、元夫の顔をいたずらっぽい眼で見つめた。
「おい。何が書いてあるんだ?」
 元夫は、もう何が書かれていたのか、自分でも思い出せなかった。
「早く教えてくれよ」
「いい、読み上げるわよ・・・・・・」
 元妻が、自分のお願いを読み上げるのを、元夫はじっと静かに眺めていた。それは久しぶりに見る悪くない光景だったことは、間違いなかった。
 
 


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