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生きる力


一昨日の地震は思いの外、規模が大きかった。それは10年前の東日本大震災を容易に呼び起こすと共に、改めて生きるとは何かと思い直すこととなった。ここに以前からしばらく考えていたことを踏まえながら記しておきたいと思う。


東日本大地震で

10年前、高校受験時から引き続き受けもった生徒が、受験で北陸方面の大学を受験しに行った際に電車内で東日本大地震に遭遇した。
日程を把握していた私はすぐに連絡して消息はつかめたが、車内に閉じ込められてしまったという。当然1人で受験に向かっていた。
次々とニュースに流れてくる悲惨な状況、津波、そして福島第一原発事故の様子を端的に伝え、

とにかく今は太平洋側に出るな、日本海側を通って帰ってこい

とメッセージを送った。

彼は少ない情報からバスと電車を乗り継ぎ、途中車で迎えに行った父親と合流できた。無事に帰ってこれたのを確認し、私は思わず涙したのだった。

充分な対策ができないまま送り出してしまったことを悔いていた私に対して彼の母親は、

とにかく今年は結果はどうであれ、生きて帰ってこれただけで100点。「生きる力」があるなら何度でも挑戦できるのだから。

と仰ってくださった。詳細はここでは言えないが、それは彼の親と私が知りうる、ある悲しみを乗り越えて今を迎えられたからこそ言える、非常に重みのある言葉だった。

彼は翌年再受験し、見事リベンジを果たし、今は企業に勤めていると聞き及んでいる。


同窓会で

私はまた、恩師とのやりとりも思い出していた。

それは2年前に行われた高校の同窓会のあとの出来事だった。
彼女とは2年生から同じクラスに在籍していた。とても透明感があり、竹を割ったような性格だった。花で例えたらカサブランカの如く、美しく上品で華やかで女性の憧れのような存在だった。
父の葬儀に親友と担任と一緒に来てくれてから、実に30年ぶりに再会し、昔話や今現在の仕事について語り合う機会を得た。
が、私は彼女のあまりにもの変容ぶりに戸惑いも隠せなかった。というのは、あまりにも痩せていたのである。故郷を離れて教職に就いていると聞き及んでいたので、私にもその激務からだろうと思い込もうとした。

が、その2週間後、1本の電話がかかってきた。
私は彼女の名がでた瞬間、全てを悟った、あぁ、彼女は最後に皆に会いに来て挨拶して旅だって逝ったのだと。

その後、友人から乳がんで闘病していたことを知った。同じように母親を亡くしているせいか、あるいは運命を予測でもしていたのか、彼女はほんの1部の友人にしか言わずに、孤独に病と闘っていたことを知る。最期まで彼女らしく気高く美しくこの世を去っていき、なんともやるせない気持ちでいた。

私は休暇をとり、恩師と私と親友とで彼女の眠る教会に行き、彼女が最期に過ごした教会で昔話に花開かせていた。私はふと将来への不安を吐露したところ、恩師は

あら、貴方達は、「生きる力」があるから大丈夫よ。ちゃんとこれまで学んできたじゃない?

と、ころころと笑って仰った。
確かに私も親友も苦労や失敗を重ね、いろいろな経験をしたからこそ学んだことが多いと感じている。

生きる力とは

地震をきっかけにさまざまなことを思い返していたのだが、つまり生きる力とはなんなのか?

現行学習指導要領によれば、

「生きる力」=知・徳・体のバランスのとれた力

とある。
変化の激しいこれからの社会を生きるために、確かな学力、豊かな心、健やかな体の知・徳・体をバランスよく育てることが大切、とのこと。

具体的には、

○ 基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、 自ら考え、判断し、表現することにより、 さまざまな問題に積極的に対応し、解決する力
○ 自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や 感動する心などの豊かな人間性
○ たくましく生きるための健康や体力 など

これら3つを総合した力を、「生きる力」という。
知識だけ偏重していても、それを活かすための徳や体がなければバランスが悪く、社会に適応しにくいだろう。
他の2つの要素も然りである。

そう言われてみれば、今どきの生徒は、親に自家用車で送迎されることが多い。
以前、塾への道順を問われ、公共機関による経路も知らせたところ、公共交通機関に乗ったことがないので、子どもだけで塾に行けないと言われていささかびっくりした。
我が家では、2人とも自宅から近隣の市、県広域、東京と広範囲に渡ってレッスンに通っている。私は仕事の関係上、常時2人を送迎できるわけではないので、公共の交通機関を利用するのは早かった。

もし公共交通機関に乗って移動できなければ、他の地域で1人ではまず移動できない。
多分にそういう子は、社会や数学も苦手なのではないかと思われる。なぜなら実生活で時刻表や地図を見て情報を処理したことがないということであるし、自分の足で歩かなければ方向感覚も養われないままだ。それはきっと社会や数学といった教科にも影響するだろう。
さらには、見知らぬ環境に適応しようとする力も小さければ、将来独立して1人暮らしなど出来はしない。
親の過度の送迎は、そのような総合的な力を必要とする状況、環境を奪っているのに等しいということに気づいて欲しいのだ。

何より、先のような受験時に1人上京した際に災害に遭遇してパニックに陥ってしまったら、生きて帰ってこれないだろう。

息子が学ぶ歌の師は、レッスンにはなるべく徒歩で来なさいと最初におっしゃっていた。
なるほど道草から学ぶ知識は、歌に良い影響を与えるに違いない。
何故なら道草から地名、地形、天気、雑踏の音、小鳥の囀り、自然の移り変わり、、、それら全てを肌で感じることが出来るからである。
レッスン時間が遅い関係や、様々な要因で送迎せざるを得ないことが多いので、致し方ないことは確かではあるが、、

それでもやはり、なるべく公共交通機関を使う機会は作ってあげたいと思う。
道草は「生きる力」を学ぶ機会であるし、寄り道回り道、そこからこれまで見えていなかった新たな発見ができるかもしれないのだから。



※2018.11.2にFBにあげた自己の記事を再編集しました。

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