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ちぎれ飛ぶ腰巾着

 得体の知れないウイルスが蔓延し、インフラも秩序も崩壊したこの世界で、桜庭紗弥さくらば さやと自分が「非感染者」として生き残っていることを、平山玲ひらやま れいは必然と捉えていた。

 玲は常に紗弥の後をついてまわる存在として、他の生徒から一目置かれた高校生活を送っていた。
 二年前、県で有名な女子高に入学した玲は、紗弥の凛とした横顔を一目見て、彼女について行こうと決めた。
 その目に狂いはなく、入学式からものの一ヶ月で、紗弥はクラスのカーストの頂点に君臨した。彼女が誰かの陰口や不満を漏らせば、例えその対象が同じクラスの生徒であっても、取り巻きの女子たちは皆張り付いた笑顔で頷き、賛同するようになった。いつしか他のクラスの女子までもが彼女に取り憑かれ、常に十数人の取り巻きを従えるようになったある日の午後、彼女は明らかに間違った内容の話をした。それを聞いた取り巻きたちは一瞬顔を見合わせたり、首を傾げたり、苦笑いを浮かべた。ただ一人、誰よりも大きく頷き、納得したフリをする玲だけを除いては。
 その日の放課後、玲を呼び出した紗弥は氷のような微笑を携えて言った。

「わたし、わざと間違った話をしてあんたたちを試したの。合格はあんただけ……名前なんていうの?」

 その日から、紗弥は玲以外の取り巻きを露骨に嫌うようになった。邪険に扱われた取り巻きは一人、二人と減っていき、ついには玲だけになった。彼女はカーストの外に飛び出して、もはや誰も触れられない高度を飛ぶ存在となり、そして玲は彼女にしがみつく権利を許された唯一の存在として、様々な噂や誹謗の的となった。他の生徒から「背後玲」などと揶揄されたり、元取り巻きの女子から「紗弥を裏で操ってるのはお前だ」と公衆の面前で泣き叫ばれたりしたこともあったが、紗弥に認められ、彼女の隣を歩けることの優越感を考えれば、何も感じなかった。

 だから玲は、得体の知れないウイルスによって生きた屍が彷徨うこの世界でも、紗弥と自分が生き残っていることを必然だと信じて疑わなかった。最期は当然、彼女の盾になって死ぬつもりでいた。

 誰もいない民家のリビング。土砂降りの雨が降る窓の外を眺めながら、紗弥がスカートの裾を持ち上げて絞る。ぼたぼたと滴る水が、フローリングの床を汚す誰かの血と混ざり合っていく。元の住民はもうとっくに死んでいるか、生き返ってどこかを徘徊しているかの二択だろう。
 不意に紗弥が、あどけない少女のような声を出し、窓を指差した。

「玲、あれ見てよ。うちの高校の生徒じゃない?」

 玲は紗弥の隣に立ち、窓の外を見る。遠目からでも感染していることがわかる、引きずるような足取りの少女は、確かに二人が通っていた学校のものと同じ制服を着ていた。

「誰だか見てきてよ。で、誰だかわかったら『それ』で殺し直してきてよ」

 そう言って、欲しいおもちゃをねだる子供のように、紗弥が指を差す。そこには錆びついたスコップが壁に立て掛けられていた。玲はそれを手に取り、降りしきる雨の中へゆっくりと歩いて行った。その足音に気付き、少女の屍が反応する。黄色く濁った目にはもう何も見えておらず、音と匂いを頼りに獲物を探し、食らいつくことしかできない哀れな元同窓生の姿がそこにあった。
 今すぐスコップをその頭に振り下ろしたい衝動をこらえ、歯を剥き出してこちらへ向かってくる屍の顔を見る。泥や血で所々固まり、頬にへばりついている長い髪の切れ間から見えたそれは、二度と見たくない、しかし忘れたくても忘れられない顔だった。

 緒方薫おがた かおるは、二人のクラスメイトだった。生前の彼女は、一貫して孤独という役目を担う寂しい女子生徒だった。どこのグループにも属さず、いつも独りでノートを取り、読書をし、昼食を食べていた。しかしそれ故に、彼女はクラスで唯一、紗弥に興味を示さない生徒として、悪目立ちしている存在だった。
 あるとき、玲は紗弥の指示で薫に話しかけた。適当な挨拶をした玲に、彼女は言った。

「あんた、かわいそうだね」

 羨望や嫉妬の言葉に慣らされていた玲にとって、たったひとりの孤独な同級生から出し抜けにぶつけられた哀れみの言葉は、余りにも痛烈だった。彼女が自分のどこを見て、何を知ったうえで「かわいそうだ」と言ったのか、玲には理解できなかったが、全てを見透かしたかのようなその言葉に、腹が立ってしょうがなかった。
 翌日から玲は、元取り巻きたちを見つけては、薫をいじめれば紗弥の評価が上がるという嘘を吹聴して回った。その後、薫がどんな仕打ちを受けたのか、玲は詳しく知らない。しかし一度、彼女の読んでいた本がズタズタに切り裂かれ、教室のゴミ箱に捨てられているのを目にしたことがあった。

 玲と、屍と化した薫が対峙する。
 絞り出すような呻き声を上げながら、両腕を突き出し、薫はゆっくり歩を進める。制服の所々に見える傷や汚れは、感染してからついたものなのか、それとも生前受けたいじめによってつけられたものなのか、定かではない。
 さきほどから玲の頭の中では、薫が生前発した言葉が繰り返されていた。

「あんた、かわいそうだね」

 やはり玲には、その言葉が理解できなかった。ただ、理解する努力はしてみようと思った。一刻も早くこの哀れみの言葉から解放されたかったのかもしれない、それともいじめの首謀者としての贖罪か、もしくは……。
 ボロボロになった薫の手が、顔が、すぐそばまで迫ってきていた。すると痺れを切らしたのか、背後の窓が開いて紗弥の声が聴こえた。

「何してんの、もう誰かわからなくてもいいから、早く殺しなよ」

 それに玲は答えた。

「紗弥、ずっと言おうと思ってたんだけど、あんたのネイルのセンス、最悪だよ」

 玲が屍に喰われていく様を、紗弥は呆然と眺めていた。しかし瞬時に湧いてきた怒りは、自分に従順だった人間を殺した屍に対するものなのか、それとも最期の最期で自分に反旗を翻した人間に対するものなのか。はっきりとはわからなかったが、紗弥は半狂乱になりながら民家を飛び出した。そして、玲の死骸に覆い被さり、彼女の内臓を唇の端からぶら下げている屍に向け、スコップを何度も繰り返し振り下ろした。

 二人分の血溜まりが混ざり合い、雨に流されていく。屍の方の顔面は完全に潰れており判別できなかったが、その隣で息絶えている玲の顔は、何故か安堵しているように、紗弥には見えた。

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