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日本人の特性と、左翼やリベラルが嫌われる理由

序文

日本では左翼とリベラルは比較的人気がない。
嫌われていると言っても過言ではない。
ではそれは何故か、日本人の特性を踏まえて考察したい。

動画(noteと同内容)

日本の文化と責任

日本の文化は、自由や権利と相性が悪い。自由や権利には自ずと責任が伴うためだ。
外国の人も責任を取るのが好きという訳はないと思うが、日本人はとりわけ責任を取りたがらない傾向が強い。
この問題についてキーワードになるのが、「相対主義」と「統治客体意識」である。
これには日本の歴史を知る必要がある。弥生時代まで遡る。

類稀な「相対主義」が育まれた日本の歴史と特性

https://www.teikyo-jc.ac.jp/app/wp-content/uploads/2020/06/journal2020_63-70.pdf

歴史・原始文化からの維持~相対主義的な地母神信仰~

弥生時代、いわば農耕の開始は、一般的に大地を母とし、母性的な宗教観を生み出したとされる。
これは全世界的にも云えることであり、世界各地で地母神信仰として認められる。地母神信仰はアニミズム的、多神教的世界観と一体をなした。

日本でいえば、八百万の神がそれにあたる。

だが、多くの地域で、その信仰も長くは続かなかった。大きな気候変動で大地の豊饒性に陰りが現れたためだ。
この変動は多神教から一神教が誕生する契機となった。信仰の中心が大地から天へと移動したのであった。そしてその宗教の性格は父性的なものであった。

例えばユダヤ教、例えばキリスト教やイスラム教がそれにあたる。

だが、日本は大地の豊饒性はそれほど変化がなかった。豊かな森に恵まれた環境が維持されたのであった。
一神教が父性原理的で絶対主義的な性格を持つ一方、多神教は母性原理的で「相対主義」的な性格を持った。

その後時代は進むのだが、大陸とは違い、日本はしばらく牧畜の文化を持たなかった。
険しい山地と狭い平野という土地柄は稲作に向いているが、牧畜には不向きなためである。

これは日本の生命観に大きな影響を与えた。
牧畜文化には森林破壊が伴う。牧畜文化が発展しなかったことで森林破壊を免れ、地母神信仰が生き残った。
そしてもう一点、家畜を持たなかったこと自体が生命観に大きな意味を与えたと考える。
家畜を管理し屠殺するという行為は否が応にも、人間と家畜(つまり人間以外)との徹底的な違いを強調させる。
一方、牧畜を営まなかった日本文化は、人間と人間以外の動物を根本的に区別する必要がなかったのである。同じ生命の営みとして捉えたのであった。これは多神教的信仰とも関連している。
つまり日本列島という土地では、大陸の人間中心的な生命観と違い、その区別を相対化し、人間も他生物も同じ命とみなす生命観が育まれたのだ。

地理的な側面~異民族、異文化との交流~

地理的要因でも日本は相対主義価値観を維持することとなった。
日本と大陸を隔てる海は、渡航困難ではないが、大群で組織的行動を行うには広すぎた。大陸とある程度の文化の行き来はあったものの、双方互いに軍事的攻撃は困難なのであった。それ故に日本は異民族に侵略・征服され、虐殺されるといった歴史に乏しい。日本人同士の紛争や内戦はあるが、価値観が根底から違う異民族との争いは乏しかったのである。

異民族、異文化との戦争は社会をイデオロギー的にする。

異民族と戦い、抵抗するには絶対的な正義、普遍的な価値観が不可欠なのである。
そんな異民族との戦争が頻発した大陸に対して、日本は相対主義的な文化に甘んじ、それが現代まで色濃く引き継くことが出来たのである。

相対主義の良い面

相対主義の良い面としては、中国や西欧の進んだ文明を躊躇いなく吸収、消化できたことが挙げられる。

文明には必ずその根底に理念や中心軸となる文化や宗教がある。絶対的な価値観では受け入れられないものも多いであろう。古代は中国、近代では欧米など、他文明の成果をためらいなく受容できたのは相対主義故であろう。

相対主義の悪い面

だが当然、相対主義にも悪い面がある。
絶対的な価値観や自己という意識に乏しくなるということだ。つまり内的な自律が希薄であり、ひいては自由意志を持てないのである。

要は、倫理観に乏しく、周りの環境に影響されやすい。また選択や行動の決定を他者や自分以外に求めがちになるのである。

倫理観の乏しさ~「世界人助け指数」最下位という不名誉~

例えば、チャリティー機関「チャリティーズ・エイド・ファンデーション」が「世界人助け指数」という報告書を発表している。
これは、「この一か月間、見知らぬ人を助けたか」、「寄付したか」、「ボランティアをしたか」という項目をベースに国別の寛容度を採点したものだが、日本はいつも圧倒的最下位なのだ。
他国の多くはそうしたことに制度的に優遇もある。それにしても日本が最下位なのはやはり宗教観ひいては倫理観の乏しさ故だろう。
当然これらの行為は、正しいし、善いことなのは納得いただけるであろう。絶対的価値観ではそれが自明なのだ。しかし相対的価値観ではそこが曖昧さを伴うのである。だからその行為をすることのハードルが他国と比べ高くなるのではないかと考える。

公共財ゲーム~相対的価値故の足の引っ張り合い~

また、当時の大阪大学社会経済研究所の西條教授の研究で、被験者に集団で公共財を作るゲームをしたものがある。
これは公共財に投資すると、自分が利益を得られる一方、相手にも利益があるという状況を想定し、どのような行動を取るか確かめるものだ。
自分が投資すれば、自分も相手も利益を得られる。相手はタダ乗り、何もせず儲かるという訳だ。

この研究で日本人は自分の利益が減っても相手を得させないという、学術的にはスパイト行動が顕著であったと明らかになったのである。

これは、公共財に投資する場合、絶対的には得をするのに、相手と自分を相対的に考えた時、自分の方が損をすることになる。
だが一方、公共財に投資しなければ、絶対的には損をすることになるが、相手と自分を相対的に見れば、同じとみなすことができる。
そういった心理が働いたのではないかと考える。

みんなで不幸になるパターンである。

こういった心理は、自由や権利を主張する運動にもかかわる。
このゲームの通りであれば、相手の権利主張が自分の権利を侵害する場合のみならず、相手が幸せになるだけの場合も相対的には不幸になると考えることが出来る。
ならば反対するのは当然であろう。

また、自分が苦労した経験から、周りや後輩にも苦労させたいということはないであろうか。これも相対主義故だと考える。
周りや後輩が楽したほうが効率も成果もよくなるのに自分だけ損をするのが許せないのだ。

このように、日本は集団主義といわれていたが、これでは集団のために我を殺すのではなく、我のために集団を殺している場合もあることがわかる。日本人の実質は集団主義とは異なるのではないかと考える。

東京大学大学院人文社会系研究科高野教授も日本人は集団主義という通説は誤りだとしている。
ならば個人主義かといえばそれも異なると考える。
日本人は、「無責任な個人の集合」が本質ではないかと考える。

無責任な個人の集合

巧みな責任回避

話は少し戻って、行動や選択を他者や周りに求めがちな点も相対主義故だと考える。
絶対主義では自分の価値観で決定することができるが、相対主義ではそういった価値観が曖昧なのだ。
例えば、みんながやっているから、流行っているから、ルールだから、上司が言ったからなど、何かしら自分以外の他者に理由を求めがちである。

このことは責任とも関わる。

自分で決定し、自分で行動すれば、それは自分の責任である。他者が入る余地はない。
だが、他者や周りによって決定し、自分が行動したとすれば、行動の責任をを他者に被せる言い訳ができるのだ。

相対主義では責任を自分以外に置く場面が多いと考える。

だからでもないが、日本人は責任を取ることに慣れていないし、責任を取りたがらないとも言われている。

・主語を省略して曖昧にできる日本語
・結婚する人が「結婚を執り行う運びとなった」のようなまるで他者が決めたかのような言葉遣い、「誤解を招いた」という相手が悪いかのような謝罪の仕方。
・傘連判状のような明確な一人の首謀者を作らない考え方。

すべて、責任の所在を曖昧にしたい、自分以外に置きたい心理故と考える。
これは日本の政治にも当てはまる。

「統治客体意識」~極力責任を取らない政治~

戦中、天皇主権とされていたが、実質的には天皇機関説といい、内閣などの輔弼を得ながら天皇の統治権は行使されていた。
これにより、内閣などは天皇に最終的責任を負わせ、天皇は内閣が決めたからと責任を負わせることが出来たのである。責任の押し付け合い。互いに責任を負わないようにする構造だと考える。

つまり責任を負うべき主体が曖昧で、実質的に存在しないのである。

これは天皇と、鎌倉幕府などの幕府との関係でも成り立つ。

では、戦後国民主権となってからはどうだ。
1997年当時の橋本首相を会長とする「行政改革会議」の「最終報告」にこのような記述がある。

われわれの取り組むべき行政改革は、もはや局部的改革にとどまり得ず、日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へと転換することに結び付くものでなければならない。

「行政改革会議」最終報告「はじめに」より

また、2001年6月、「司法制度審議会」が当時の小泉純一郎首相に「司法制度改革審議会意見書 ―21世紀の日本を支える司法制度―」と題する報告書でもこのような記述がある。

このような諸改革は、国民の統治客体意識から統治主体意識への転換を基底的前提とするとともに、そうした転換を促そうとするものである。統治者(お上)としての政府観から脱して、国民自らが統治に重い責任を負い、そうした国民に応える政府への転換である。

報告書「Ⅰ 今般の司法制度改革の基本理念と方向 〜 第1 21世紀の我が国社会の姿」より

2000年に至っても、お上が政治をしてくれる、責任を取ってくれるという意識は変わっていないと指摘されている。責任を取りたくない心理そのものであり、これは今も引き続いて、根付いているように考える。

この統治客体意識は、国民を政治からあたかも神の視点にいるかのように錯覚させ、政治のプレイヤーなのにオーディエンスだと思い込ませているように思える。プレイヤーだとしても献策だけして責任を負わない軍師希望が多いのはそのためだろう。

ただ、だからといって、政治家が責任を取るわけではない。これは至極当然なのだが、政治家も政治家で選挙を経ることで、責任を国民に押しつけている。
少なくない政治家が不祥事で辞職せず、選挙による審判を受ける姿勢も責任を取りたくないという心理と無関係ではないだろう。

また前述の行政改革自体、政治家が明確に責任を国民に押し付ける目的もあったのではないかと考える。

統治客体意識は、歴史的に市民革命や市民からの改革の経験に乏しいことからもわかり、また強調させているように考える。
民主主義転換のポイントとして、明治維新は武士という特権階級が、戦後はアメリカがもたらした改革であった。

同様に、学生運動やSEALDsの失敗は政治はお上によるものという意識から引き起こされ、支持を得ることが出来ず、結果その意識を強めたと考える。
これは左翼やリベラルを嫌う要因にもなっている。

一旦のまとめ

まとめると、日本は歴史的に相対主義が根付いている。
これにより、自由や権利主張を冷ややかに見て、決定や選択に責任を取りたがらず、政治は市民のものではなくお上によるものという意識が強く、
またそれが悪循環を生んでいるように考える。

自由や権利を強調する日本の左翼やリベラルひいては民主主義とも相性が悪い

日本の左翼とリベラルの問題点

だが、日本人の特性だけが彼らが嫌われる理由かといえば、そうではないと考える。いくつか理由を列挙していきたい。

左翼、リベラルのイメージが悪い

前述のとおり学生運動の失敗や共産主義による暴力革命などイメージが悪い。またインテリぶっていけ好かないイメージを抱いている人も少なくない印象である。
共産主義のイメージ悪化は、今話題(2022年10月)の統一教会、勝共連合と、それと癒着する自民党と無関係ではないが今は置いておく。

損を与える者、お上を害する者としての印象

前述の通り、自由や権利主張で多くの人は相対的に損をする。
それだけではない。
左翼やリベラルの運動は政府との衝突が避けられないことも多い。その時は必然的にお上の邪魔になるのだ。ならば下々はどうであろう。下々はお上に依存している。お上を害されれば、自身を害する者と認識するかもしれない。またお上からの仕返しが飛んでくるかもしれないと考えるかもしれない。
いずれにせよ損をすると考えるのである。

既存の秩序や価値観を乱す存在(反保守的思想)

左翼やリベラルの主張は、築き上げてきた秩序を乱し、価値観の変換を迫るのも多い。そうしたことに少なくない日本人は耐え難く、拒否感を示すのも仕方ないと考える。

そもそも日本の風土と左翼やリベラルは合わない

もとより左翼やリベラルの主張は権利や自由を絶対的と考えるものも多い。主張する自由や権利が論理的には妥当であっても、相対主義の日本の文化や風土には端から受け入れられないものであったのかもしれない。

過度な題目への絶対視

あと、主張の論理的妥当性を絶対視し、他を妥協しない、逆に甘受、許容する姿勢もあることも問題であろう。
例えば、主張以外の例外を認めなかったり、逆に主張に伴う暴行や暴力革命を甘受したり、だ。

リベラルと標榜する存在が猿真似、出鱈目である可能性

あとは日本のリベラルと標榜するものが、本当はリベラルではない可能性もある。
日本のリベラルや左翼は、日本の風土は合わないのに、一応は日本から生み出された存在である。
猿真似をしているだけ、右翼や保守の逆張りをしているだけ、出鱈目を言っているために受け入れられないのかもしれない。

終わりに

以上により、日本のリベラルや左翼は嫌われているのではないかと考える。

日本はこれまで仮初の民主主義でやってきたが、失われた30年といい、限界は近いように思える。
交通手段やインターネットの発達により、他の国とより近くなっていることは無関係ではないだろう。そして未来は今以上に近くなっていくことであろう。
異質な日本が今後やっていくには、他の国を見習い、より民主主義を実行していく必要があると考える。
そのためにはやはり一人一人が責任を取り、自由や権利を享受できるようにしなければならないように思える。

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