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ひとりと一頭で生きていく。

冬の朝焼けの富士山を横目に、私は東海道新幹線に揺られていた。名古屋で乗り換え、最終目的地は岐阜県のとある山の中。私はラブラドール・レトリバーの子犬を見に行った。

これは、地方出身・東京在住、心許ない独身フリーランスの記録。大きな犬と実家で平穏に暮らすことを現実にすべく、静に地味に生きている。記録を残そうと思い書くことにした。

そばにはいつも、犬がいた。

①白い気品あふれる紀州犬/〜昭和62年

人生の最初の犬は「紀州犬」。名前は「チロ」という。しっぽがくるんとまるまり、真っ白く品のある毛並みをしていた。家族はみな、「穏やかでやさしい性格だった」という。私の記憶のチロは、子どもに一切興味がなく、淡々とそこにいる静かで孤高の存在。私に吠えることもちょっかいを出すこともなりまわすこともない、静かでクールな犬だ。

ただ、ひとつだけ、鮮明に覚えていることがある。犬の散歩に出かけたときのことだった。

祖父や母が散歩をするとき、私はいつも後ろからついて歩いていた。その日も川沿いの道を、置いていかれないように歩みをすすめていた。突然、チロが、私の足元に腰を落としてきたのだ。そして、あたたかくて重たい物体が足に乗る。

そうです、うんちをしたのです、私の足の上で、チロは。

クールで穏やかなチロに突然意地悪をされたと思った。私は驚きと悲しみと悔しさで言葉が出ず、出た言葉が「……ばかー!」という金切り声。チロはそんな私をただ眺め、静かに佇んでいた。

帰宅後、泣きながら靴を洗ったことを覚えている。まあ、洗って干せばいいだけの話だ。その頃には私もケロッとしていた記憶がある。

その後もチロは我関せず淡々と過ごし、つかず離れずな距離で暮らしていた。あの感じ、距離感は、けっこう心地よかった。

昭和のおわりの雪の晩、静かに死んだ。

②初のラブラドールを飼う/年中さん〜高校3年生

春が迫ってきたある日、子犬が家にくることを知った。母の運転する車に祖父と同乗し、いつも行く小児科の医院へ向かう。祖父はよそゆきの背広を着て、ちゃんとした格好をしていた。医院は昼休みの休憩中だったろうか。しばらく待っていると、先生が子犬を抱いてやってきた。

先生の胸にいたのは、足が太くて眠そうな顔をしたラブラドール・レトリバーの子犬だった。犬と一緒に、少し封の開いたドッグフード、母犬のにおいのついたマットレスを車に運んでくれた。私は車の後部座席に祖父と犬と乗った。ドックフードを一粒、手にとり犬に近づけた。おそるおそる手からドッグフードを食べてくれたあの瞬間は忘れられない。この日から、ラブラドールが私たちの家族に加わった。

名前は「龍(ロン)」。辰年生まれだったので、辰(龍)から祖父が名付けた。かっこいい名前。そして性格は陽気でほがらかだった。

教えなくてもボールを投げたら持ってくるし、フリスビーを投げればキャッチして戻ってくる。「ロン」と呼べばちゃんと来る。それまでの日本犬ではしなかった反応を見せるラブラドールに、我が一家はいたく感動ていた。ただ、いたずらも相当好きで苦労もしたそうだ。穴掘りが好きで、コンクリートと土のわずかな隙間に鼻を突っ込み、せっせと穴を掘り続けた。鼻を擦りむきつつ、体が入るほどの大きな穴を掘ったことには驚いた。

ロンは、私にとって大切な遊び相手で相棒だった。小中学校の日記や文集には、犬との日常をたびたび書いた。「えさやり」「ねぎとり」などの平仮名4文字のタイトルをつけて、私は文章を書いていた。犬にごはんを与える一部始終を書いたり、夜に畑にねぎを抜きに行って暗いなか犬が見守ってくれた話を書いたり、私のそばにも脳内にもいつも犬がいた。初めて私一人で散歩をした日のことも、誇らしく綴っていた。
 
私が高校3年生の冬まで生き、旅立った。物心がちゃんとついてからの初めての別れ。主のいない空っぽの犬小屋を見るたびに「ああ、ほんとうにいないのか」と不在を思いしらされた。

③岐阜からトラックで来た2代目ラブ/18才〜34才

春が来て、西濃運輸のトラックに乗って白いかわいい犬がやってきた。先代と同じ、ラブラドール・レトリバーだ。イエロー枠だが、真っ白にシロクマのような子犬だった。

名前は「ドール」。今回も名づけは祖父だった。ただ、先代のロンのときと違って、「ラブラドールだからドールだ」という大雑把な名付けをしていた。お人形のようにかわいいからドールだよね、と私は解釈している。

ドールは本当に元気でやんちゃで、同じラブラドールでも犬によってさらに性格が異なることを知る。

追いかければ遊んでもらっていると勘違いし、さらに逃げていく。庭でボール投げをしても、ボールを拾ったら戻って来ず、そのまま遠くへ行く。呼んでも来ないことがある。散歩の時間が近づくと「散歩だよ!」と吠える。食後にデザートとして牛乳を要求する。淋しい夜は人間を呼んでナデナデさせる。夜中に一度遊んだら、味をしめて翌日からその時間になると「遊んで」と啼くようになった。楽しいことは全て習慣にする犬。散歩中に嫌な道があれば全身で拒絶もした。好きと嫌いとこんなに大胆に表現する犬って、なんて大胆で面白いのだろう。

明るく自己主張をし、自由気ままに生きていた。かわいさとわがままさがちょうどいい塩梅に混ざっていて、天性の才能を感じた。いろんな人にかわいがられていた。

最期の日々、私は東京から何度も会いにいった。そのたびに奇跡的に持ち直し、また元気になる。あまりにも奇跡を起こすものだから、このまま元気になっちゃうんじゃないか、もう少しいけるんじゃないかとちょいと安堵した。でもその矢先の冬の朝、静かにひとりで逝ってしまった。15歳。

東京・青山で働いていた私は、仕事が終わってすぐ、お別れをするために駅へ急いだ。クリスマスのイルミネーションでキラキラした表参道を、マフラーに顔を埋めて泣きながら歩き、東京駅へ。飛び乗った新幹線は空いていて、私は隠すことなくグジュグジュと泣いた。涙が勝手に流れ、止めようと思っても止まらない。

夜中に家に着いてお別れをし、翌朝再度家族でさようならをした。火葬場に行き、体重を測ると30kgあった。30の数字を境に費用が大きく変わるから、妙に覚えている。火葬後、庭の片隅に穴をほって、お墓を作った。

お花を置いて、そそくさと東京へ戻った。

新たな出会いに向けて/34歳〜(現在40代突入)

散歩する犬を見かけると思い出して涙が出た。寂しいと悲しいの間を行ったり来たりする日々のなかで、ある知らせをもらった。

先輩ラブ(1代目・2代目)と縁があった訓練所で、子犬が生まれたという。驚いたのは、その犬たちが生まれたのは2代目の子が煙になって空にのぼった日だということ。これは何かの縁に違いない。

とはいえ、家族を見ると、私も含めてみんな年齢を重ね、大きな犬を飼うことに少し躊躇いがあった。両親は健在だが、いつまで元気でいられるかはわからない。だけど、人生に犬がいないなんて考えられない。犬に家族になってほしかった。

私は運命の子犬たちに会いに行くことにした。冬の朝、岐阜の山奥にある訓練所に向かったのだ。

私に突きつけられた「飼い主の資格」

「ご両親は高齢で、娘さんはおひとり(独身)ですよね。面倒を見ることはできますか?」

訓練所で言われた言葉に私はハッとした。

犬と暮らすことは命を預かること。両親はそこそこな年齢だし、私は独身で忙しく働いている。特にラブラドールは、人との親和を大切に生きる犬種だ。家を開ける時間が長い人や長時間構ってあげる余裕がない人には、飼うことは許されない。

もしも両親がいなくなってしまったら、私は幸せな時間を与えられるのだろうか。実家に引き上げて面倒を見れるだろうか。今はまだいいけれど、老犬になったときにちゃんとお世話ができるのか。30kgの犬の介護は大変だ。私ひとりでは、犬を抱き上げて運ぶこともままならない。

私に犬を飼う資格はないのかもしれない。

決意。やってきたのは黒い犬

④ツヤのいい黒光りするラブが来た

でもでもやっぱり、犬と一緒に生きていきたい。

今のところは両親が元気だし、ラブラドールと暮らすことで規則正しく生活ができ散歩で体も動かせる。何かあったら私が仕事の仕方を変えて、家にいられるようにすればいいのだ。フリーランスという道もあるし(※このときはフリーランスではなく会社勤めでした)。

ふたたびラブラドールを迎えることに決めた。

そうしてやってきたのが、我が家で初となる黒色の犬だ。ラブラドールの黒い子犬「メリー」である。今回の名づけは母。そういえば、なんでメリーにしたんだろう。

私にとって、白い紀州犬、2頭のイエローラブの次に来たのが、妙に黒光りするメリー。黒い犬、新鮮! 表情は読みにくいけど、体で楽しさを表現する。人が大好きで、道端で「かわいい」なんて言われたら、その人を見つめてすぐに腹を出す。ああ、この犬もなんていい性格なの。

私は38歳ぐらいにフリーランスとなり、東京と実家を行ったり来たりをしながら暮らしている。気づいてみたらもう6歳。口のまわりに白い毛が増え、ときの流れを感じてしまう。

財力も生活力も、知り合いも増やさねば

犬とこれからも楽しく暮らしていくためには、私には身につけなければいけないことがたくさんある。

生活力に体力、知力、財力。何かあったときに頼れる人との縁。

独身で自営業で、体力的にも経済的にもじんわりとした不安に蝕まれる。そもそも私にはあらゆる力が足りていない。社交的かというとそうでもないし、体力はあるようでないし、知力があると感じたことはない。車の運転は下手だし、骨も弱い。

2年前ぐらいだったか、おしゃれなウッドデッキを歩いていたとき、つまずき派手に転んだ。足首がパンパンに腫れて、1日経っても痛みはひかず病院へ行った。レントゲンを撮ったら、剥離骨折をしていた。いとも簡単に骨折する年齢であることと、この程度で骨折する自分の骨に静かに衝撃をうけた。

ひとりで犬と暮らしていたら散歩ができなくなって途方にくれていただろう。こんな具合に、犬と一緒に幸せに生きていくためには、私は足りていないことだらけなのだ。

『ひとりと一頭で生きていく』は、"ひとりと一頭で生きていきたい”私が試行錯誤する記録だ。足りないものだらけの私は、どこまでいくのだろうか。

努力はする。けっこう無理もせねば。



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