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あいらぶエッセイ③「物忘れ癖が直らなくて・・・」

 物忘れが、とにかく激しい。
 携帯電話や財布、卓上に用意してあったハンカチを持ち忘れて外出しようとするのは日常茶飯事。先日は、お気に入りの喫茶店へ行き、客がいっぱいだったので自宅へ引き返すと、財布を持たずに家を出ていたことに気づいた。もし入店できていたなら、僕は鞄の中を確認しないまま、迷わず奮発して、大好きなオーガニックコーヒー・ホット(八百五十円)を頼んでいただろう。

 前の職場でもひどかった。
 伝統芸能公演の運営担当を任されたとき、夕方に閉幕し、後片づけを終えて屋外駐車場へ出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。時計を見ると八時半を過ぎている。荷物を積み込んだバンに乗り込み、客の車が一台もない寂しげな広い駐車場から出ようとすると、出入口付近に棒状の赤い光が見えた。はっと息をのむ。僕が案内係を任せた学生バイトの二人が誘導灯を持ってまだそこにいた。開演して以降、僕は彼らの存在を忘れてしまっていたのだ。そして帰ろうとしていた。くたびれた表情の二人は、客の車がだいぶ前にはけた後も、僕の指示を延々と待ち続けていた。僕の物忘れが、いつか人の命を奪いかねないと、本気で恐怖を覚えた(君たちも一言、聞きにきてほしかった)。

 血の気が引いた出来事は、二十年くらい前の学生時代にもあった。
 素人ながら、大学のサークルでサッカーを始めた僕は、消滅しかけたチームで二年目に、ひょんなことからキャプテンを務めることになった。地域の社会人リーグにも登録し、必須だったため僕は講習を受け、四級審判員の免許も取得した。
 主審デビューした公式戦は、僕のジャッジのせいで、とにかく荒れた。もともと緊張しやすい上に、場を仕切るのが大の苦手である。開始早々、サイドライン沿いで副審を務めていた僕のチームメイトが、一瞬、躊躇した後、オフサイドの旗を挙げたのを僕は見落とさなかった。思いきり笛を吹く。
 ピィーーーーー!!
「おい、おい、おい、今のはオフサイドじゃないだろう!相手ディフェンダーが一人残ってたぞ!」
 違反を取られたチームの、僕よりもだいぶ年上に見える選手たちから、途端に激しい怒声が飛んできた。チームメイトの副審も顔をこわばらせている。そこから完全に浮足立ってしまった。今度は、強烈なシュートがゴール上部のバーに当たり、ほぼ真下に落ちた。近くの選手たちが声を上げる。
「ラインを割った、ゴールだ!」
 ピィーーーーーーー!!!
 気がつくと、僕はまた笛を吹き、得点を認めるジェスチャーをしていた。
「はあああ!!?今のは入ってないだろう。その位置から、ボールがゴールラインを割るのが見えたのかよ!?」
 確かに見えづらかった……内心、パニックだ。
「はい……見えた、ゴール!」
「ふざけんじゃねえよ!!」
 試合はその後、両チームとも、かなり熱くなり、危険なタックルも飛び出してくる。
「いいかげんにしてくれよ、審判!あのプレーは完全にレッドカードだろう!この試合、カード出さないと収まりつかないぞ!」
 灰色(だったと思う)のユニフォームの方のキャプテンが僕に近づき、責め立ててきた。
「……」
「なあ、カード出せって!」
「……」
「ん?なんだ?お前、まさか……主審なのに、カードを忘れてきたってわけじゃないよな……」
「……」
「……な、こ、こいつ!!おい、この試合、没収だ、没収ーー!!」
 胸ポケットの中が空であるのを感じながら、広いピッチで僕は意識が遠のいていく気がした。

 四十を過ぎても、物忘れ癖があまり改善されていないのは、短所に対する自分の向き合い方がいいかげんだったからだと、今ごろになって反省している。過去の出来事を思い出すと、胸がちくりと痛みもする。
 だが、一方で、それらの体験も含めて今の自分を形づくったものだと思うと、罪悪感を覚えながらも、失敗の数々に対して、何か慈しみたい気持ちになってしまうのだ。

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