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満洲引揚三世の備忘録

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#満蒙開拓団

[11] 富山の古書店から届いた満洲引揚体験記の佇まい

 ハードカバーの外カバーをハトロン紙で丁寧に覆った古書が富山の古書店から手元に届きました。

 『赤い夕日の満洲で―少年の日の引揚手記』(谷島清郎著、ちばてつや挿絵、新興出版社刊、1997年)。

 時々古本マーケットで満洲の体験記を探し少しずつ手元に取り寄せていますが、こんなに大切に扱われていた本は初めてです。

 ハトロン紙とカバーの間には、両袖と背の部分を補強するように書店の包装紙を切って挟

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[9] 満蒙開拓青少年義勇軍の母

 戦時中の写真集の中に、実家の近くにあった小学校(当時は国民学校)の前で、村の満蒙開拓義勇軍父兄会の人たちが並んだ写真を見つけた。
 最前列には母親と思われる8人の女性が座っており、兄弟なのか小さな子もいる。

 農村では召集されていく男性が増えたため人手不足となり、満蒙開拓団の送り出し計画が政府の思うようには進んでいなかった。その穴を埋めるように、高等科を卒業する子どもたちをターゲットにして村や

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[7]集団自決で女性や子どもを介錯した人は犯罪者か?――『麻山事件』読後感想

 『麻山事件』(中村雪子著、草思社、2011年(1983年刊の文庫版))読了。

 1945年8月、北満の麻山で避難中の400名余りの女性や子どもたちが自決した。自らも引揚者でもある著者は、愛知県庁引揚援護課に一年間通い詰めて資料を書き写し、生存者たちに会って話を聞き手紙でやりとりしながら、13年かけて麻山事件の全容を明らかにしようとした。
 そのとてつもない執念のおかげで、麻山の集団自決事件の経

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[4]「のらくろ」の罪

 「のらくろ」は子どもたちのヒーローだった。
 子どもたちだけでなく、大人たちものらくろの生みの親である田河水泡先生を尊敬していたらしい。
 
 満洲の小学校の同窓会誌に、田河先生の講演によって満蒙青少年義勇軍に入ることを決めた、と書いた卒業生がいた。入隊から引き揚げまでの詳細を所属していた義勇軍の体験集に書いたという。幸運にもそれを入手できた。

 その人は、終戦後の中国大陸をさまよい、中国人の

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[3]お米屋さんもお菓子屋さんも、焼け出された人も満蒙開拓へ

 満洲に農業移民として渡っていったのは農村の人たちだけではない。東京から商店街丸ごと開拓団として送り出されていることは知っていたが、長野県からも商店主たちが開拓団に参加している。

 今、信濃毎日新聞から祖父たちが渡満中のある記事を探すためアーカイブを調べている。その1941年分を見ると、統制経済の下で経営が難しくなった中小商工業者に向け、技術を身に付けて軍需工場で働くか、帰農して大陸に移民するか

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[2]戦争の記憶継承を阻む著作権の壁

 「半分しかコピーできません」
国会図書館の複写サービスの窓口で、定期刊行物については、例えば研究紀要などでは執筆者名が入った論文は一本丸ごとコピーできるが、書籍は名前が入った記事はそれぞれ半分までしかコピーできないとのこと。

ある開拓団の歴史を編集委員会を立ち上げてまとめたもので、ところどころ当時の様子について関係者が名前を入れて書いている。窓口の説明によれば、巻頭に「発刊に寄せて」など複数の

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[1]それぞれの墓碑銘―沖縄戦、広島・長崎、平頂山事件そして長野県満洲開拓史

[1]それぞれの墓碑銘―沖縄戦、広島・長崎、平頂山事件そして長野県満洲開拓史

3年前の8月15日。
私は中国の平頂山惨案記念館にいた。
ここを訪れたのは全くの偶然で、撫順炭鉱をめぐる現地ツアーに含まれていたからだった。

1932年9月15日、平頂山集落の人たちは中秋節を家族で祝った。
翌朝、日本兵に写真を撮ってやると全員広場に集められ機関銃で掃射され、子どもから大人までおよそ3000人が虐殺された。
その現場は焼かれ日本は事件を隠ぺいしたが、アメリカ人ジャーナリストによっ

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[満洲の記憶を追って]

中国東北地方の旅から戻って3年になる。
1940年に渡満して奉天市(現在の瀋陽市)で子ども時代を過ごした母がその頃を懐かしむようになり、当時父祖が住んでいた家と奉天の街が今どうなっているか見てくることが旅の目的だった。

現地で見聞したことは、自分が満洲国(現地の人は偽満洲国と呼ぶ)時代について何も知らないまま生きてきたことに気づかせてくれた。

祖父母は満洲のことをひと言も話さずに亡くなった。

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