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(答)消費・インプットから~Whole Be-ing~創造・アウトプットへ~循環(試論)


消費文明

近代~現代、例えば明治以降、産業化~工業化~情報化

において、百姓(百の仕事者)はサラリーマンになり、生業(なりわい・自然や命との交歓)は労働(標準形態)とレジャー(消費商品)に分かれた。

という見方はできると思う。

さて、

ユニバーサルベーシックインカムの導入ってどうなんだろう?

と考える。

(コロナのもと、給付金が配布されているが、これを定期的に全員に定額で配布する。または、時間で価値が減衰していく地域通貨を定期的に全員に定額で配布する)

10億円あったらどう使う?

まずは、思考実験として、たとえば、10億円とか、使い切れないお金があったとして、どう使うだろうか?

①まずは、消費する。

最初はやっぱり、これまで欲しかったもの、足りなかったもの、憧れたもの、欲望、食、性、旅、モノを買うだろう。ある程度ステータスも買えるだろう。本や情報やセミナーもまた消費に含まれる。

そして資産を得て、資産がお金を自動的に生む(利息や配当)ようにして、保険もかけて、安心安全を得るだろう。

②飽きる 気づく Be または中毒する つながる

しかし、①は結局は満たされない。マズローの階段は上がるかもだが、内なる空虚が満たされなければ、それはキリがない。お金も、いくらあれば不安がなくなるだろう?キリがない。目先の安心程度だろう。
投資運用も、経済成長自体が実は止まっているので矛盾がある(GDPは不安製造に堕しているし、ピケティの r>g 働かざる投資家が働くものより稼ぐ のっておかしい、非物質的価値の部分は別な貨幣にした方がいいのでは、と思っている。)
なので、ある程度身の丈までは、不安が減るが、一線を超すと、内なる不安、失う不安が大きくなっていく。博打(投資や挑戦のこともある)やドラッグなどに中毒してしまうこともある。

ここで、内なる闇に直面して(病気、挫折、絶望、自己啓発)、気づき、ツナガリを取り戻し、Be-Ing(Whole Be-ing 全体的な存在そのもので”ある”こと)に立ち戻れると幸いだ。

③創造する 投資する

ここにいたって人にとって創造は歓びである。
創造はお金をあまり使わない。
(ただし、共有するコモンズを用いたり、伴侶や、子どもたち、親たち、友、地域の人々、自然、ネットのご縁の方々、さまざまなチャンス のおかげさまは大きい)
創造のために、投資をする。これはあるだろう。
創業、非営利活動、プロジェクト、アートインスタレーション、工芸、アート、表現活動、、、そのための勉強やプロとタイピング、自己投資、自己啓発、ヒーリング、情報収集、リサーチ、、、そして他者の応援、投資、エンパワーメント、研究、高質化、効率化もあっていいか、、、

これらは、価値を生み出す。
この価値は消費もされるが、消費のために生まれるわけではない。

そして、自分に使い切れないものは、他者&仲間&友の全生命のための持続可能な変容(存在アイデンティティ、ボディ、文化、システム、つながり)のためのプロジェクトに投資または寄附・贈与すればいい。お金は巡る。お金も喜ぶ。

いいじゃない(^ ^)

もう一つ、蕩尽的、破壊的、祝祭的な消費があった。これは聖なる消費というか、聖なる贈与と言えるから、OK。


人は創造するようにできている

必要なのは、内なる不安をなくすことだ。または、それは無くせないけれど、それとやさしくつきあい、それに振り回されないようにすることだ。
そのための質的ベーシック環境があるといい。

1.内面:不安を最小化し、それに執着せずにつきあう。文化や知恵や人。
2.つながり:支え合うコミュニティ(伴侶、家族、近所、なかま)があれば安心だ
3.モノ:食べるものか場所、寝る場所、プライバシーのある場所、からだ、できれば自然

上記が満たされればかなり不安は最小化されるのではないだろうか。これにプラスまたはその代替として、不安が最小化される金額(人や文化で異なるだろうが)までお金としてのベーシックインカムをシェアする。

人類は、社会は、もっと創造的になるはずだ。人はそういう風にできているから。子どもたちは遊びづくりの天才であり、創造者だ。


もう一度問う 消費ばかりのフリーライダーは許されるのか?

消費をインプット、創造をアウトプットとして置いたとき、
ベーシックインカムを導入したとき、
インプット、消費、ばかり という人はどうなんだ?
とやはり フリーライダーでいいのか? と一瞬思う。

しかし、やはりそれはいいのだ。OKなのだ。

①存在としてYES

存在としてYESなのだから、消費していようがどうだろうが、評価されるべきではない

②消費をプロセスして成熟していく

②消費のプロセスをしっかり抜けることで成熟していくことで、Be-ingに触れれば、消費は素直なインプット=吸収 となり、アウトプット=創造 となる 生命の呼吸 だ。吸いすぎれば吐きたくなる。吐くことでまた吸いたくなる。中間には宇宙のコーリングがある。それを見守る場が必要だ。愛の場だ。

③創造の閾は低い

存在といっても閾は低い。極論では、反応すればそれは創造だ。反応しないこともフィードバックなら、いればいい。そのためのモニタリング神経があればいい。グーグルでの検索行為はすでに創造行為ともいえるのだ。つまりデータを出すこと・取られることはすでに表現であり創造なのだ。
(シンプルに、イマココにあることに集中して、量子細胞的にも、感じ反応するところに行くと、また世界は再創造される)

聖なる循環へ

ということで、空しい穴埋め的な限界知らずの浪費(ラジャスな)消費はもう要らない。ただし、インプットとしての吸収、アウトプットとしての創造 という神的な呼吸。そして呼と吸の間の、∞との i 的、量子的な呼吸。である。
下は昨日のグラフィックを反転してみたら黒板絵みたいになったもの(^ ^)

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真ん中に安全なゾーンがある。これは天地を結ぶ御柱に貫かれており、左がインプット・受取、右がアウトプット・贈与、インとアウトの間は、虚数・量子の領域になる。無限大の心臓*蝶の羽根

これを縦にしてみると

画像2

インプット・受取り は 丹田にて、またはボディが地球や宇宙マザーに繋がることで、受け取る。愛されていると。これは♥を通じて、横、命のツナガリ、コミュニティ、スペース、他者、並行宇宙 を横断しつつ、精神~霊へ上る。そして、泉のように宇宙へ湧きい出る感謝を放出する。吐き切ると、そこに愛が流れ込む。これは全体との共鳴を生み、大いなる命の Co-Being-Living の祝福のうたがうたわれる。大いなる宇宙の呼吸。

聖なる循環は、閉じつつもまた開いていく(^ ^)

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