見出し画像

いのち1st 宣言(仮)-(8-10)/10

プロトタイプとして「いのち1st 宣言」をし始めてみてます。


全10 予定の最後は 8~10(過去分 1~3 , 4~7 にも加筆しながら)。
.

🌟八."いのち1st"は おたがいを尊重する 状況やご縁も

"いのち1st" は、一つでありながら多様にあらわれているお互いを、自らの別バ―ジョンとして尊重します。人も多様な生命も宇宙も細胞も原子も、すべてはかけがえのないものとして生きていて、お互いを大切にします。すべてに神さま(おおいなる一つのいのち)が宿っている感覚です。
そして関係性や状況もご縁として授かりものとしてギフトとして尊重します。すること とも言えます。

私たち"いのち"は、意志や意図に関係なく、それを身体知というか存在智として知っています。そしてそのように動くこと(尊重して動くこと)が本来はできます。

人間以外であればそれ(尊重)は自然に思われます。
それは狩り狩られる関係においても尊重の中にあります。

人間の場合に、ある個別事象において、一見尊重が見えないとすると
個として 集団として 人類として 学びにあるのだろうと考えます。
これも "いのち" のプロセス(やらされるものでなく、自発的内発的に起こり変化していく動き、流れ、フロー)です。

それは 葛藤 か 病 として見えるかもしれません。

葛藤:個の生存と集団の持続が天秤にかけられた とか
(しかし葛藤もまた”いのち”のプロセスです。
 このケースは、個か集団かのトレードオフではない道(両立とか)があらわれるかもしれない。)

病:お互いを尊重できないモード(マウント合戦に執着しているとか)に固まってフリーズしてしまっている とか
(これもまた悩ましいけれども ”いのち” のプロセスです。まずそれをギフトと捉えて、こうあるべきを手放していくといいかもしれない。争い(可視化)がツナガリや個々の尊重へのヒントやきっかけとなるように)

プロセスもプロセスとして尊重します。
(この時、私もそこに関わっています。当事者です。同時に、私と彼らと分断はしておらず、一つのシステムを成しています。私であり、私と彼であり、私と彼の組み合わさりであり、それも状況の生成的ホロン的な一部を成しています。ここで大事なのは自身への気づきです。)

ご縁のおかげさま。と感謝して生きてみる。
そんな社会でもあったらいいですね
.

🌟九."いのち1st"は 気づき Awareness

生きていること 生きてあること 生きること 生かされていること 生きあっていること 生そのもの それらを意識すること

ここに主語を置くことができます。

私(主語)は設定次第です。
どんな定義も自由です。過去設定も未来設定も自由。これまで生きてきた記憶とこの肉体で生きている私でも、ワンネスな宇宙とか、時空を超えたスピリッツとかもありうるし、そういった思考的なものでなく、何かわからないけれど何かエネルギーのようなもの的な感覚でもありでしょう。
意識というか、視点というか、それ次第で、私たちはゼロにも1にも3にも100にも∞にも i(虚数)にも座標系にも何にでもなれて、さらに複数のそれを重ね合わせることもできます(最初はたいへんかもですが、演劇感覚で(^ ^))。複数の視点、内から外から両方から、当事者から観察者から、メタ状況から。

そして私(主語)は、どう生きるか を
決めることも 決めないこともできるし 
感じることも 考えることも できる

そこ(内容・体験)に埋没することもできるし 意識する ただ観る こともできる
そんな 観る わたし がいます そんな わたし を設定できます
それは中身ではなく ただ観て 眺める 視点 
でありつつ 器 スペース・場・空 
そして 祝福・愛

"いのち1st" は、 祝福・愛 の 器・スペース として 中身・内容・コンテンツ・体験 を 流れ・フロー・動き・変化・生成 を ニュートラル・安心・安全 に 観、慈しみます。
それは自然体的なバランスであり、恐れや心配などから自由(あってもいいが振り回されない)。自然に自在に立つ感じであり、プロセスを信頼し委ねる感じです。 
.

🌟十."いのち1st"は 足るを知る 動的な完全 遊び

"いのち1st"は、欠乏や恐れからは動きません。
それは自らでないものに動かされ、依存し、道具化・手段化される(自らそうする)道です。
そうではなく、すでに完全で足りていて Enough であるところから
もっとこうしたい・遊びたい・好奇心・創造や共創 と動くフローする道です。もちろんそうしなくても大丈夫。
すべては完全・完璧であり、しかし固定せず、動き変わり流れ続けます。
(そうしないことは澱みとなり臭いから浄化をうながされます)
夜明けや夕陽の空が雲も含めて一瞬一瞬美しいように。
(もちろんそうでない一瞬一瞬も、なにげない一瞬一瞬も美しき奇跡です。)
枯れ木に花咲くに驚くより 、生木に花咲くに驚け(三浦梅園)
(生木に花が咲くことこそが魔法であり奇跡であり驚きです
 いのち の あたりまえ は ありがたき こと)

反対概念は<欠乏

私は 
愛されていない 価値がない 独りだ お金がない 不安で安心がない 地震がない 能力がない 時間が無い 余裕がない 甲斐性がない ~が無い
それは 一つの命 との 分離/分断 な感覚。しかしそれを感じる時の悲しさ/つらさ/苦しさ/寂しさ… は 真実を知っているから故。

それをしっかりと受け取るなら抜けられます。
あなた自身で真実を贈ることができます。あなた自身でしかできません。

そうではなく、何かで代替するなら、依存が広がっていくばかりです。
一番は消費 宣伝はあなたは足りない それをこれで解決! とアピール/脅します。消費経済は世界を覆い、麻薬ビジネスのごとく人類を一見コンフォートで居心地のよいマトリックス(子宮)に中毒させる社会構造(システム)が進んでいます。そしてさらにそれ自体が人類を弱体化(非意識化・自己治癒力減…)させることで複利で再帰的に加速していっていることに気をつけましょう。

お金のため、経済成長のため、加速化生産性アップのため、進化のため、生き延びるため、持続可能のため、全世界統治のため… いろいろ理由がつけられますが、大きな意図があろうがなかろうが、システム自体が暴走してしまっている感さえあります。

"いのち" は足りている
欠乏という幻想から出てみれば、それは自身への 偽のセルフトーク(呪い)だったことに気づきます。自分の内なる "いのち(セルフ・自然・宇宙・大いなる自己…)" の声に耳を澄ませば、私たちは一つで助けあい、育み合い、個々にはケンカもしながら、一緒に共生していけることを知っています。それは"祝い"。

その選択は 各自でできます。誰かにあなた自身の力を預け、依存するのか、自身の力を信じ、共存するのか。
(例えば 中央集権で自分以外が株主の巨大発電所に依存して、無駄に消費もしつつ自分の命や未来の選択権も電気料も奪われるのか、DIYの自家製自然エネと共同出資の再生可能発電所をシェア(さらにプラネタリーにも何かしてもいい)して創造し自治しつつまかなうのか
私たちには 力も愛も尊重もシェアも工夫も、そして選択もできます。
そのカギは 私たちは足りていること "いのち" は足りていること を想い出すことです。
.

🌟"いのち"をもう一度選択し、最初の一手・一歩、そして常に最優先とすること。それが"いのち1st" です。

次回はもう少し具体的なことも考えてみます。
そのための 文化 経済 政治 技術 暮らし・・・かな?
少なくとも "いのち"最優先を決めるといろんなことがシンプルで考えやすいです💖


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?