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名古屋STREETDANCE HISTORY4 〜1991年:名古屋イズムの爆発〜


どうもです。UCです。

(これは名古屋STREETDANCE HISTORY企画の目次4です。その他の目次はこちらから確認ください。→名古屋STREETDANCE HISTORY )  
(2022.12.21 追記アリ)

さて、前編では1990年が、”NEW SCHOOL“がカタチ作られた1年だったと紹介しましたが、
この1991年になるとさらに深まり、名古屋でも様々な爆発が生まれだしました。

かなり長くなってしまいましたが笑、
その分濃厚なので是非楽しんでください!!

(※文中はすべて敬称略です。ご了承ください。)

はじめに


名古屋において、色んなことが爆発し始めるのがこの1991年でした。

90年編で、
DADA LMD』,『ダンス甲子園』, 『ダンスダンスダンス』とダンス番組がブームとなった話をしましたが、
この年はより多くの名古屋ダンサーが、全国的に活躍をしました。  

番組毎に振り返ってみたいと思います。

『ダンス甲子園』での名古屋ダンサー 


この年、『第三回ダンス甲子園』が開催され、
前年度のリベンジを誓った『CAPTAIN SUCK』メンバーが、メンバーの入れ替えを行い、
MIAMI FACE』を結成しました。
メンバーは、
KENGO”(のちの『PARTY』)
KOU”(現、『CAKRA DANCE COMPANY』主宰, 『STUDIO CAVE』代表)
YASU”(現、”DELAYAS“)
 ”SANOちゅう
に加え、
新メンバー”DENZO”(のちの『PARTY』)
の5人でした!

当時、
本場USAからイチ早く情報を仕入れては消化し、常にトレンドを引っ張っていたのが東京のトップダンサーたちでした。
そして、90年初頭にして重厚な歴史を誇り、地力が高かったのが大阪ダンサーや九州ダンサーと言われていました。  

それらのダンス先進地域に対抗すべく、
彼らは独自の角度から新しいダンスを開発します!  

まず、“KOU”が持っていたターンテーブルを分解し、BPMを+100まで速くできるように改造したそうです。
そして、その超高速音楽で踊りまくることで産み出されたのが、
ピテクス」というスタイルでした。
(※人類初期に戻る勢いでの動きということで、アウストラロピテクスの語尾が由来。)
さらに、ある夜美人幽霊に出逢った“KOU”が取り憑かれたように踊り出したことで、「ゴースト」というスタイルも生まれました。

2つの独自スタイルを全面に押し出しつつも、
当時はオリジナルスタイルに対して否定的な風潮があったため、
(HIPHOP =USAなので、USAから入ってきたものじゃないと認められにくい時代だったのかと推察しています。)
メンバーは、「この踊りはNYでもLAでもない、マイアミで今爆発的に流行っているんだ!」
なんて嘘八百をカマシ笑、
結果、一大センセーショナルを巻き起こし、
優勝候補の呼び声で全国大会進出を決めました!

▲『ダンス甲子園』での『MIAMI FACE』
(個人的にソロがぶっちぎってるのが最高にカッコイイです!)


この独自スタイルを貫く姿勢/ 個性を重んじる感性/ カマすまで続ける根性、
東海ダンサーのマインドの根底を確実に刻み込んでくれたひとチームだと思います。  

そして、
第一回、第二回で中部地区代表になっていた『WEST FAST』は代替わりし、
JUNJI“(90年編での“服部くん”)(のちの『PARTY』)
KACHIGE
TAJI
などを擁した『MAKE UP TRIPS』として全国大会に出場しました。

▲MAKE UP TRIPS動画

そして、
ダンス甲子園』には出場していないものの、
もうひと世代下の高校生で結成されていたチームが、
DIG』であり、メンバーは、
RYO-Z“(のちの『Hi-Problem Child』『FIVESTAR』『Bush Babeez!!』など)
PINO”(現、『PINOCCHIO』)
KAZUTO
の3人でした。
(すごいチームですね!)

愛知県岩倉市、江南市に産まれたスターチームであり、
DIG』の練習場所であった『江南文化会館』には、
DIG』を慕う後輩ダンサーも集まっており、
その中から、その後に名古屋シーンを賑わすダンサーたちが何人も出てきます。  

『ダンスダンスダンス』での名古屋ダンサー 

SAMU”が初代チャンピオンに輝いた『ダンスダンスダンス』の第二回が全国放送で開始されると、
プロローグ編でも紹介したレジェンドチーム『WILD STYLE』が、
マンスリーチャンピオンに輝き、グランドチャンピオン大会に進みました。  

▲『ダンスダンスダンス』のグラチャン大会。(6:38からWILD  STYLE) 『ちゃんねるず』が優勝した伝説の回ですね!  

漲ってますね!
そして、他の出演者も豪華すぎます!
詳細は割愛しますが、この番組のGUESTである『MEGA-MIX』から『trf』が生まれたのも有名な話ですよね。  

『CLUB DADA』での名古屋ダンサー 


そして、
CLUB DADA』でも、『WILD  STYLE』の
YUKOP“, ”TAKE”, ”SANO“の3人がDADA名古屋大会において、
それぞれ”ウィークリーチャンピオン”に輝いています。  

こちらは先輩のVIDEOで映像を観たことはありますが、
YouTubeでは見つけられませんでした〜  

ちなみに、プロローグ編でも紹介した “ATSUKO”(現、『dance space VIB.』代表)は、
前身の『DADA LMD』時代にチャンピオンに輝いており、
さらに、『マハラジャディスコクイーンコンテスト』優勝の際には、
ロンドンでの『ワールドダンスチャンピオンシップ』にも進出するなど活躍されておりました。  

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▲ ATSUKO(ワールドダンスチャンピオンシップ出場時)

ちなみに、
この『DADA LMD、改めCLUB DADA』からは、
あの『ZOO』が生まれ、スマッシュヒットを記録したのも有名な話ですね。  

ということで、ダンス番組で全国的に活躍する名古屋ダンサーが何人も出た年となりました。    

中でも、チームでもソロでもかます『WILD  STYLE』メンバーの踊りは本当にエネルギッシュでした!
ダンサーとして、そして、人間として漲(みなぎ)っていました。
漲る人間力がダダ漏れのダンスは、観るものに抜群の説得力をもたらしてきたのだと思います。  

特に“TAKE”と“YUKOP”に関しては、
ダンサーとしてのエピソードはもちろん、
ヒトとしてのエピソードも満載の2人です! 
 (僕自身も、TAKEさんにはお世話になりましたし、一度だけ一緒にshowをさせていただいたこともあります!)

2人のエピソードに関しては、ここでは書けないエピソードも大多数ありますが笑、
書ける範囲で今後も出していきたいと思います。
何にせよ、2人ともまだまだ次回以降も登場しまくります!

DANCE DYNAMITE がもたらす繋がり


このように全国のテレビ番組で名古屋ダンサーも存在感を発揮した年でしたが、
地元名古屋では、今なお続く長寿イベント『DANCE DYNAMITE』が始動しました!!

そして、イベント出演に向けてさらに仲間を募っていた『ダンス★ダイナマイト』の ”SAMU”と”ROCK”(現、『Dance & Bodywork Studio KBS』代表)に引き抜かれたのが『WILDSTYLE』の“UCOP”と“TAKE”でした。  

そして、
「プレイヤーだけじゃなくて、DJも入れようぜ。」
ということで、
DJ SAORI“も招集されました。  

P: player
D: DJ

のユニットということで、
名古屋初のプロダンサー集団として歴史に名を刻む、
P.D UNITS
が誕生しました。  

画像3

▲ P.D UNITS(前:左からTAKE, UCOP、後:左からROCK, DJ SAORI, SAMU)
(※全国誌『ON  STAGE』(92年6月)より引用。)  

他にも、
SAX奏者の“SAX-KITOH”というミュージシャンメンバーもいたそうです。  

(最初からダンサーのみじゃなく、DJやミュージシャンを入れるあたり、
この時代から既にセンスが高かったんだなぁと驚きますね!  )

というわけで、
記念すべき第一回目の『DANCE DYNAMITE』は、
現在のダンスコンテスト形式ではなく、
選ばれたチームだけが出演できるDANCE SHOWメインのDANCE PARTYでした!
東京でいう『MAIN STREET』みたいなもんですかね?!(『MAIN STREET』は1992年〜なので、この時代は『青山ナイト』ですかね。)  

そして、
第一回目は伏見の『Heartland』で開催されたのですが、
当初は名古屋に適当なホールがないとのことで、毎回会場を発掘しながら変えていくというスタイルだったそうです。
(時には廃墟などホール以外の場所を、ホールに変革させていたそうです!)  

▲第2回目のDance Dynamiteの様子!!

そして、この『DANCE DYNAMITE』が、当時最前線で活動していた名古屋ダンサーたちをどんどん繋げていきました。

前述の『MIAMI FACE』と『P.D UNITS』の出逢いもこの頃ですし、
MIAMI FACE』とプロローグ編でも紹介した “KING-BOO”率いる『摩訶不思議』が繋がったのもこの年です。  

当時、
摩訶不思議』のLIVEをビデオ片手に追っかけていたのが、“ミキママ”でした。
この時に『P.D UNITS』や『MIAMI FACE』にも喰らってしまった“ミキママ”が、
それ以来、『MIAMI FACE』や、のちに『MOVE UP』などのカメラマンも買って出るようになったとのことです。

以降、”ミキママ”が東海ダンスシーン、時には東京や大阪のBIGイベントまでをも表裏から撮影し続け、
MIKIMAMA FACTORY』として30年にわたり、今なお東海ダンスシーンを動画に収め続けています。  

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▲MIKIMAMA FACTORY ロゴ

そんな東海ダンサーなら誰しもがお世話になったスーパーカメラウーマンが誕生したのもこの年でした。  

◎当時のダンス動画満載のミキママファクトリーのビデオにDVD!!
showのみじゃなく、リハから、練習から、裏側まで、マジでお宝映像たっぷりです!
 観たい方はミキママか先輩方か僕と仲良くなってください笑
 その辺はYouTube掲載の許可が下りるまではまだアナログです笑  

当時の練習場所のメッカとは

そんな当時の名古屋ダンサーの練習場所のメッカは”栄のテレビ塔下”でした。
平日から四六時中『MIAMI FACE』や『MOVE UP』のメンバーが集まって練習していたそうで、
そこに吸い寄せられるように後輩たちも集まって来たそうです。  

その中には、のちに『MOVE  UP』に加入する ”AG“, ”TAKAO“を筆頭に、
当時中高生だった、
IZUMI”(現、“維月見”), “SOMEKA“(現、“染香“), ”KENJI”, “PINO“, “KUMAZAKI“, ”TOMOKAZU“, ”TAKAOMAN“, ”CHITOSE“, ”MIKI“(当時、小学生w)
などがいたそうです。
上記メンバーが初期練習メンバーであり、
以後、どんどんと拡がっていったそうです。 

※マジで全員名古屋を代表するヤバいダンサーばかりです!
 全員詳しく説明したいくらいですが、次回以降も何度も出てくるので、今後も楽しみにしていてください!  

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▲テレビ塔下での写真(※写真は92年頃?)


この練習場所のメッカは、『ダンス甲子園』などTV番組でも紹介された為、
ダンス好きがどんどん集まる結果となったとのことです。
そして、先輩後輩はあれど、誰かが誰かを教える師弟関係はなく、
みんなでシェアする練習仲間ということで、
それぞれが個性を重んじながら仲良く練習していたみたいです。  

そして、週末は『P.D UNITS』主催練習会が”庄内緑地公園内体育館“であったそうです。  


まだスタジオなどはほとんどない時代、
ダンスしたい人は勇気を出しダンサーの集まる場所に行って、
さらに勇気を出して、先輩に声をかける。
そうして自分から一歩踏み出すことでシーンに飛び込めた時代ということですね。  

まさにストリートですね!

情報に溢れ、手取り足取りレッスンしてもらえる今とは本当にまったく違いますね!
どっちが良いとか悪いではなく。  
時代によって”当たり前“が変わっていくということですね。

当時聖地だったクラブ

この頃のダンサーたちにとって聖地だったクラブが、
UPPER』(今、『BUDDHA』があるビルの1階にあったそうです。)  

ここで最新のHIPHOPをガンガン流してくれていたのが、
DJ MURAKAMIGO“(現、『SUGARBITZ』)
DJ MITSU“(現、『nobodyknows+』)
DJ Butcher“(のちの『P.D UNITS』)
などでした。  

こちらもレジェンドばかりですね!!    

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▲今編で出てきた人たちの集合写真
(左から:SAMU, YUKOP, MIKI, DJ Butcher, MIKIMAMA, ROCK, TAKE)


最後にこんなエピソードをひとつ。
当時は中高生もディスコやクラブに潜り込んで遊べた時代(良かったわけではなく、今よりは緩かった時代)だったみたいで、
夜遊びに興味のある中高生も、朝までクラブで遊んでいたそうです。
しかし、『UPPER』は比較的入場料の高いハコだったらしく、
お金のない中高生たちは毎週は入れない為に、
隣の駐車場で換気扇から漏れる音で踊りながら練習して遊んでいたそうです!  

良いエピソードですね◎
そりゃmixtapeでも練習することも出来たでしょうけど、
効率悪くても、それでも現場の空気やplayを少しでも感じたいという感性と、
それを行動に移す根性と、
そこまで一緒にハマれる仲間たち。
そりゃうまくなりますよね。  

そんなこんなで徐々に繋がり、深まり、拡がってきた名古屋NEW  SCHOOLシーン
NEW SCHOOLとしての方向性がより濃く決定していく1992年へと続きます。  

【まとめ】

1991年は名古屋シーン黎明期のダンサーが全国で注目を浴び、触れる世界が拡がるほどに「凄い人をマネるのではなく、”自分だけ”のオリジナルを高めたい」という名古屋特有のダンサー気質が高まった1年だった。

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