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あのとき、彼は絶望していた。



可愛い子には旅をさせよ、という金言


先日火曜日の祝日、長男のテニスの試合がありました。

結果でいうと一回戦負け。。


3ゲーム目が終わった時点で、2-1でリード。

次のサーブゲームを取ることができれば、波に乗れる。

勝負に出ようとして強気に打ち込んだショットが、

相手コートの右側、フォアサイドの奥、エンドライン近くに落ちたのを見た。

で、それを返された。


相手が必死に振ったラケットのフレームに当たったボールは、

コントロールが効かない上に長く飛ばなかった。


ネット際に落ち、慌てて取りに走るも取りこぼして相手のポイントに。


ここで、彼の心は折れた。


その後のサーブもリターンも精彩を欠いていて。

ごくごく普通のラリーでバックアウト。

体が回ってない。足が追いついていない。


フェンス越しに見つめながら思いました。


あ、あの子絶望している。。と🤔


相手コートに満を持して打ち込んだとき、彼は一瞬、期待したように見えた。


もしかしたら勝てるかもしれない。このショットはキマるはず。と言う顔をした(気がする)。


その期待が絶たれたとき、

絶望の感情が彼の心を支配したのではなかろうか。


その後は、ずっとイライラしている様子だった長男。

なし崩しのまま試合は終了。
真っ赤な顔をして、うつむきながら戻ってきた。

悔しさと、不甲斐なさ。
色々な感情が彼の中を駆け巡っているのを感じる。


絶望はとても厄介で、ネガティブな身体反応を引き起こす。

体は強ばり、力を奪っていく。


精神科医、V·フランクルの著作「夜と霧」によれば、旧ナチス軍のユダヤ人絶滅収容施設では

ある年の年末に、亡くなる人がとても多かったそうです。

なぜって?


もしかしたらクリスマスの12/25日には、許されて外に出られるかもしれない、

という期待を

誰もが抱いたから、と。


その期待がただの妄想で、

実際には起きることはないということに気づいた時の


人々の絶望を想像することはあまりにも胸が苦しい。


元々、心身ともにギリギリの所で命を繋いでいた人たちから

生きる術を最後に奪ったのは、

絶望という感情だったとフランクルは考察しています。


では、絶望という感情に飲み込まれないように

私達はどう対処していくべきか??


ここで大事なのは、期待とは、妄想であるということ。


起こりえる可能性の客観性を無視して、

自らの欲求が生み出した幻想である、っていうすごく切ない話。


ようは、こうなったらいいな😍

みたいな気持ち。


夕飯はハンバーグだったらいいな😚→お母さん玉ねぎ切ってるから絶対ハンバーグだ❗→肉じゃがでした、がっかり🫠


みたいなことって、子供なら(大人でも笑)よくあると思うんですよ。

けど、何回もそれを経験するにつれて学習していく。


お母さんが玉ねぎを切ってるからといってハンバーグじゃないぞ❗このあとひき肉と卵が出てくるかどうかよく見てみよう❗と。


だから、失敗は成功のもと。


経験することによってシミュレーションの選択肢が増えますもんね。


自分の期待はあてにならないということを経験して、期待じゃなく推測ができるようになっていく。

なにかに絶望したとき、立ち直るためにはどうする??

長男とは、そんなことを話しながら帰りました。

長男の答えは、

「今できることを探す」


なるほど。

どん底に落ちても、諦めないこと。

失意の闇に落ちたとき、
救いのはしごをかけてくれるのは未来への希望である。

思い通りにいかない経験が、子どもたちを育ててくれる。


一つのゲームから、いつもたくさんのことを学べます。

テニスよ、ありがとう。


まぁ、まずは素振りから頑張ろうよ、と励ました母でした😂😂


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