見出し画像

クリスマスの思い出(昭和な家族の物語)

クリスマス前の日曜になると、幼い頃はよく父に連れられ教会に行った。
その日はクリスマス礼拝のある日で、私は父の横にちょこんと座り、牧師さんのお説教を聞き、賛美歌を歌う礼拝をじっとおとなしく聞いていた。
そうして我慢していると、クリスマス礼拝のあとにはごちそうが待っていた。

礼拝後、父と一緒に教会の奥にある集会室?に向かい、入口で会費を払う。
集会室には、教会の婦人会の方々が腕をふるったごちそうが所せましと並べられていた。
チキンやターキーの丸焼き。そのほかのいろんなごちそうやパウンドケーキやらのお菓子がそこにはあった。我が家の母の腕では作りえないご馳走ばかりだ。
教会の横に住んでいた同じ教会員だった父の叔母も、元気な頃はそこでたぶん腕をふるっていたのだろう。叔母は料理も色々とくわしかったようで、料理の冊子のようなものも出していた記憶がある。
それはそれで楽しい思い出だが、だからといって自分がそれをすごく楽しみにしていたか、というと疑問だ。
幼い頃は、そうして父と教会に行くものだ、という感じで、ただ黙ってついていっていた。
兄も幼い頃は一緒だったかもしれないが、そのうちいなくなった・・・多分、休日にもっと楽しい予定が入るようになったのだろう。
そして、母がそこにいた記憶はまったくない。
母は教会に興味がなかったから、父も連れて行こうともしていなかった。
私を連れていったのも、キリスト教へいざなおうとか、そういう事ではなさそうで、たぶん週末ぐらいしか子供と一緒にいられないから連れて行こう、ぐらいの気持ちだったのだと思う。
そんな行事がないときも、たまに教会に連れたし。そんな時、母は幼い子供の世話からしばし解放されていたのだろうな、と今になって思う。
まあ、そんな思い出だけれど、父の通っていた早稲田にある古いレンガ造りの教会での趣あるクリスマスの風景が、私の記憶の底のほうにしっかり居座っているのは間違いない。


そして我が家ではもう一つ、普通のクリスマスも行なわれた。
本当にそれはありふれたものだったと思う。
今とはちょっと違う固めのクリームで飾られたクリスマスケーキ。それでもこってりしたバラの花で飾られた甘ったるいそのケーキは、子供にとっては憧れで楽しみだった。
そのうちだんだんケーキも上品になり、ちゃんとした生クリームのイチゴショートが主流に変わっていったけど。

そしてクリスマスのごちそうで覚えているのは母の手作りハンバーグだ。
それは新丸子に住んでいた頃知り合ったA野さんの奥さんから母が習ったものだった。
ひき肉に痛めた玉ねぎのみじん切りと調味料を混ぜてこね、それをフライパンで焼くハンバーグだ。
初期のソースはケチャップだけ、それがそのうち肉汁にケチャップとウスターソースを混ぜたものにアップグレードしたが、つけあわせはたいてい人参のグラッセ(甘煮)等で。
それまでは出来合いの固いハンバーグだった我が家にとって、それはちょっとおしゃれな洋食メニューだった。
(兄はレトルトの"イシイのハンバーグ"の方が好きだったようだが)

話が戻るが、この料理のほかにも母にこじゃれた料理をいくつか教えてくれたA野さんは、当時は珍しい4年生の名門女子大を出ていた才媛だった。
旦那さんもその後大手水産会社の重役となり、息子さん達も立派に出世していたりと、我が家とはちょっと格が違う感じの家庭だったのに、なぜかA野さんの奥さんは母と仲良くなり、こうしてモダンな料理を教えてくれたりと、母が亡くなる頃までその関係はゆるく続いていた。
最初は幼稚園の息子同士が同じ年だったから付き合いだしたようだけど、息子同士の付き合いが途切れた後も二人の関係が続いていたのは不思議だ。

そしてかなり後年になってからは、ご近所のM野さんが焼いてくれるチキンが我が家のクリスマスの定番となった。
自分の家でオーブンで焼くからと、我が家の母と私の分も一緒に焼いて下さり、そのおいしい焼きたてチキンをおすそ分けしてもらえるようになったのだ。
この奥様とも、今住んでいる住宅地に越して以来のお付き合いで、彼女も東京の名門私立高を出たお嬢様で、要塞も料理もなんでもテキパキとスマートにこなす奥様だった。
田舎育ちの母にあれこれいつも気配りをしてくれ、母が亡くなった後も私にまで色々気づかって下さった、

A野さんやM野さんなど、母は本当に"人の縁"に恵また人だった。
そういえば母は女学校の頃のお友達もみんな、級長や副級長をつとめていた賢い方が多かったようで、それは祖母が母に「賢い人とお友達になりなさい」と推奨してた、と聞いた記憶がある。
そんな思想のお蔭で、勉強不得手な母だが(笑)、賢く素敵なお友達が多かったかもしれない。
逆に賢いお友達がなぜお付き合いくださったのかは不思議だけれど、裏表なく本心をさらけだす陽気な母は、付き合いやすかったのかもしれない。

食べ物の話ばかりになってしまったけれど、クリスマスプレゼントもごく普通だった。
菓子のつまった紙製のサンタの長靴もそういえばあったし、幼い頃は"サンタ"が枕元に欲しいものをおいてくれていた。
いつ頃からか不明だけれど、わりと早めにプレゼントをくれるのが親だと気づいていて、さして裕福でない我が家でも購入可能な程度のプレゼントを親に希望するようになっていた。
ただすごく欲しかったカラー粘土を買ってもらい、なぜか水につけてたら、いつの間にか全部溶けていた時は悲しかった・・・小麦粘土だったのだろう。幼い頃からお人形とかより粘土とか欲しがるへんな女の子だった。

あれこれ思い出はあるけれど、本当に我が家のクリスマスは特別な事はなかった。
ただ、悲しかったり切ない思い出がないというのは、本当に恵まれたことなのだな、と今になって感じる。
ごく普通に愛情を注いでくれた父や母、そしてそのまわりの親切な人たち。
そんな思い出ばかりがある事が、なにより奇跡だし、私にとって人生最大の"GIFT"だったんだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?