見出し画像

友達に線を引く|無職日記

友人との関係について。

ここ数年、友人と会っているときに嫌な気持ちになっていない自分に気づいた。

単純に、周りにいる人がいい人だからというところが大きいんだと思う。

といいつつ、学生時代や大学を卒業してそこそこのころは、友人とぶつかることもあれば、なんかこの人といるとすごく辛い……みたいなことがたくさんあった。

学生時代なんて、ある程度の条件で同じクラスや学科に集められてそこから友だち作りが始まるので、なにかぶつかるようなことがあるのは仕方ない気もしている。

その上で、いま友人関係が安定しているのにはいくつか理由がある。

  • 他人をうまいこと使おうとする人と線を引く

  • 他人の行動に干渉できると思っている人と線を引く

  • 自分と他の人で明らかに態度を変える人と線を引く(良くも悪くも)

  • マウント取る人は論外

  • 他者の前で友人を踏み台にするのも論外

という感じで、誰かより自分を優先するいわゆる「テイカー」な人に対して意識的に境界線を引いてきた。

重要なのは、距離を置くのではなく見えない境界線を引くというところ。この人に自分の大切なところは渡さない・見せないイメージで接する。

自然と連絡を取らなくなるし、会う頻度も減るのでほとんど距離を取ると同義だけど、会うことになったら会うし、話す。
ただ、絶対にわたしの腹は見せないぞという覚悟をしている。わたしはわたしに服従する犬だ。


わたしは一定「ギバー」よりの思考を持っていると思う。だからか、テイカーにとっては都合のいい人になりがちなんだなと、数年前に『GIVE AND TAKE』とかいう本を読んだときに思ったりした。

この世には自分に何をしてくれたのかで他人を計る人がいるし、自分が得するように行動を仕向ける人もいる。

性善説に近いところで生きてきた自分はそういう経験のたびにびっくりしたけど、振り返れば確かに思い当たる節がある。そういう人は一緒にいても幸福度が下がるだけなので、どんどん疎遠になろう。


ただ、人間関係に関しては「今は」という枕詞をつけることも肝心だったりする。人って変わるので。


大好きなPodcast『OVER THE SUN』で、前にジェーン・スーさんが「(女性は)いつか同じ川に戻ってくる鮭だから安心して」みたいなことを言っていたのが印象的だった。

結婚やら恋愛やら仕事やら経済的ステータスやら子どもやら、自分のパーソナリティ起因だけでなく地場がぐらつく装置をめちゃくちゃ持たせられてる人間として、
いろんな要因でハイになったり落ち込んだりするのは折り込み済み。それこそ言ってることが180度変わったりするのも事実だと思う。

そういう状況下、居心地が悪くなったらお互い違う海に出たと思って一度さようならすればいい。

離れるのがキツイとしても「今は離れるが、またいつか同じ川で笑うのだ」くらいのスタンスで離れていいのでは。


人生を変える条件みたいなもののひとつに「付き合う人を変える」という項目があって、最初は人脈とか他人を選んで使うようなイメージが強いその言葉にグロテスクささえ感じた。

でも、自分の行動を解釈したときに、実は自然とやってきたことかもしれないな、と思ったのだった。


わたしや他人に干渉してないがしろにする人と線を引けば、その人分の隙間が空く。

その隙間には勉強みたいな自分を深める水が流れるかもしれないし、余暇のように自分を楽にする風も吹く。もちろん、また別の人との関係で埋めることも可能なのだ。

中学時代着ていた服がもう着れないように、20代前半に使っていた化粧品が今の自分に合わないように、自分は変わり続けていて、周りもそうで。

友達だからと一緒に居続けることは大切なことかもしれないけど、合わなくなってしまったと気づいたら、どこかで滅私していないかは気をつけたい。

もちろん、誰かとの楽しい思い出や経験はそのままきれいにラッピングして片隅に置いといていい。

その上で、他人と離れる悲しみではなく、今の自分の心地よさにフォーカスをあてていくことは、今後も続けたいなと思っています。

離れること、幸せになることを怖がらない。

この記事が参加している募集

今こんな気分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?