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【NO死生観NOLIFE】第2回感想


5月に初めて身内の死を経験してから、本を読んだり、みんなと死ぬことについて議論してみたり、色々考えてきて前よりはそれなりに理解が深まった気がする。そんなタイミングで友人がFacebookでシェアしてくれた死生観講座とやらに参加しています。

“はっぴーの家ろっけん”という神戸にある多世帯型介護付きシェアハウス。その経営者の方が主催する
”どう、死にたい?どう、生きたい?偏差値より人生偏差値!学力より生きる力を掴み獲る秋”
をテーマにした講座。隠しきれない溢れ出るカオス。最初は面食らうけど入ってみると優しい人達で居心地は最高です。

ほんとに多様なバックグラウンドの方たちが登壇したり、普段話すこともないような人たちとオンライン上で繋がり死生観について話す、とてもおもしろい。
せっかく参加してるなら、各回のリアクションを残して置こうと思い、Noteに吐き出していきます。
毎回の講座で時系列に心に触れたことを箇条書きにするスタイル。

今回のテーマは”葬儀は故人のためだけのものなのか”
メインスピーカーは、真言宗須磨寺副住職でありながら、本の執筆、イベント登壇、YouTubeでの法話を配信など多方面で活動されている小池陽人さんです。

死は悪いもの?


悔いのない死別はない。こんなことをしてあげたかった、こんなことを話しておけばよかった。
父の急死によって39歳でお寺を継いだ友人の話。父が亡くなるまでは喧嘩ばかりだったが、亡くなってからは、お寺のことなどをもっと聞いておけばよかったと後悔が残った。
しかし位牌の前で毎朝手を合わせていると、亡くなってはいても自身の中で対話ができた。そして父の生きていた39年より、亡くなってから自身が還暦を迎える21年間のほうがより深い対話ができた。
死はどうせ誰もが経験する。いいも悪いもない。ただ死の前後でどんな工夫を施すかでそれが良くも悪くもなる。

思ったこと。

死んでからも死者を想い続けることで、仏教で言う相互供養になるという話をされていた。
前回紅谷先生がおっしゃっていた、死は点ではなくもっと幅のあるものだという話。そこと繋がる。
死に価値をもたせるということ。亡くなったからこそやりとりされるものがあるということ。この視点は面白かった。ぶっちゃけた話、亡くなってしまえば本人がどういう反応をするかはもうわからないし、聞けなかったことへの解は永久に失われる。ここでいう対話は、自分の中に亡くなった人の存在を灯して、この人ならどう考えるだろう、と想像する中で行われる自問自答だと思う。そしてそれ自体は意味があるんじゃないかな。
亡くなってからのほうがおばあちゃんの存在が大きいと言っていた代表の首藤さん。
死がきっかけで関係が改善することがある、とおっしゃっていた小池さん。
この意味で言えば、生きているからこそできる対話が、当たり前だけど存在して、それはなるべく生きているうちにしっかり行わなければいけない。それが親孝行とよばれることもある。この死の前後での工夫をもっとしていかなきゃなあ。
前に読んだ本の中で、死者を想うこと、死者は誰かに想われていると信じること、そういうバトンが繋がれていけば、世界から隔絶されるという「死=点」的な考えから抜け出て、死への恐怖も薄れると書いてあった。こう考えると死への恐怖は薄れるのかな?

葬儀って誰のため?


故人の存在を参列者に刻みつけるための儀式。街の中の人が気軽に参加するような葬儀でもいいのかも。
十人十色の人生なら十通りの葬儀。葬儀のリハーサルをするお寺。金ではなく想いと手間と時間をかけなければいけない。

思ったこと。

葬儀のリハーサル笑、とっても斬新だけどその意図を考えると意味がありそう。既に書いた、死に価値をもたせる工夫の一つだと思う。亡くなってからも周囲の人の中で生き続ける存在、その新たな再出発点が死なのだとしたら、その過程で葬儀において何を大切にするか、どんなメッセージを伝えたいかを、亡くなる人本人が知っておくのって大事かもしれない。
僕の祖母はパーキンソン病で亡くなった。認知機能がどんどん低下していったから本人との会話は難しくなっていったけど、父親から祖母の人生の話を聞く機会が増えた。自分が知っている祖母は60歳からの祖母で、本当に一面的で、話を聞いていて全く想像してない一面が出てきたり、どれだけの苦労をして今の父親がいて、その先に自分がいるのか、というところにもはっとした。祖母を敬う気持ちがとても強くなった。それは祖母が死に向かう過程で生まれてきたものだし、父親がそういう工夫を施したおかげでもある。終わりを意識するからこそ振り返ってみて再確認したり、何かを大切にしようと思える。

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なぜ自殺するのか?


自殺する人の背景にはきっとたくさん背景があるし、自殺に至る要素がある。そのいくらかは変えることが出来ないかもしれない。ただもしかしたら、それまでの人生で多様な価値観や死に触れてこなかった、ということが本人を追い詰めている可能性がある。自分のことは自分が結局1番わかってない。どんなに賢い人でも他の人の生き様から学ぶしかない。

思ったこと。

人間って辛いときほど下を見いていて視野が狭い。その狭窄した価値観の中で自分のことを悲観的な方向に判断してしまう。だからつらさから抜け出せない。僕自身は友人を持つ、というのは心に窓があるイメージがあって、辛いときほど鬱憤とした心のもやもやとした霧を吹き流してくれると思っているけど、そういった窓をどれだけ作れるかはきっとキーポイント。

効率化と手間


時間に支配されている。効率性に執着しすぎている。管理の効率性のために近い属性を集めて切り離していく。
楽なものに流されていくけどそれは味気ない。煩わしい人間関係を排除した先にあるのは?
違和感は3つ以上あるとどうでも良くなる。面倒のないところに感動はない。大切なことほど面倒。時間をかけるから納得感が得られる。人は大きな悲しみを一度に消化できない。手間と時間をかけて消化する。手間や想いのこもったプレゼントには情がわく。

メディシンマンの話。不治の病の患者の家族に『遠く離れた山の上に生えている薬草を飲めば治る』
これがそもそもプラセボで帰ってくるまでなんとか生きる、しかもそこまでして手に入れた薬草なら!という気持ちがプラセボ効果を最大限にする。間に合わないとしても、自分のために何かをしてくれているという満足感。家族も何かすることが出来たという満足感。日薬と目薬。


思ったこと。

何事も一長一短で、効率化が人々を幸せにしてきたことってきっとある。じゃあ何を効率化して何の手間を大切にするべきなんだろう。例えば眼鏡。効率的に生産されたZoffの眼鏡をかけるのか、手間隙かかってその分高い金子眼鏡のものを選ぶのか。それってきっと人によって、その人の信念によって違ってくる。
そもそもこういうくくりで一般論的にまとめようとしてるのが違うのかも。それぞれが感じる大切にしたいことに沿って判断するべき。
あるドキュメンタリーでミニマリストを特集していたけれど、彼らは物を捨てたいわけじゃない。一つ一つの持ち物に意味とストーリーを感じること、そうして自分の持ち物に愛着を持つことを大切にしていた。大量消費社会の中で、満たされない物欲を際限なく埋め合わせようとするのではなく、自分に必要なものを丁寧に使っていく。なんかここらへんと繋がる気がするなあ。

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迷惑かけないって何?


迷惑をかけちゃいけないという呪縛。迷惑をかけない人生なんて存在しない。迷惑はかけるもの。
迷惑行為はもちろんだめだが、人にお世話になることも今は迷惑に含めている。
交換の原理が前提になっている。
仏教は等価交換を否定する。食べ物は自分の中に入ったら自分、切った爪は非自分。自分と他者との境界が曖昧だからこそ、自分と他者という二元論に基づく交換の原理を否定。Give and Take,Win-Winにはもう限界がある。
自分の手助けが将来想わぬ形でかえってくることがある、手助けしているようで元気をもらう、受け手と受け取り手は時間と立場によってコロコロ変わる。
街中の子供にお菓子をあげるおばあちゃんが「子供のエキスを吸い取ってますから!!!」
やってもらったことには「ありがとう」「おばあちゃん、昔たくさんしてきたもんね」
最大の自傷行為は誰にも頼らないこと。甘え上手。
「無時間モデル」
昔:労働が先、消費が後。
今:消費が先、労働が後。しかも今は無時間でお金への対価が得られる経験をする。
自分のしたことに対して時間をかけて何かが還ってくるという感覚が得られにくい。勉強してなにになるの?なんて昔は考えもしなかった。

思ったこと。

ひと言ひと言が印象的すぎて消化不良になる笑
短期的な視点の中で、自己中心的で、自分に利益があるかの打算的な思考をしているときっと上で書いているような物を失っていく。そもそもお金が手段ではなく目的かのような、そんな錯覚を起こす世界の仕組みの中では、難しいのかな。どんな経験をすれば、どんな心がけをすればいいのか、考えてみる。

宗教が現代だからこそ果たす役割


タイに暮らされている方が紹介してくれたタイの文化。輪廻転生が当たり前に人々の思考にある。死とは服を変えるようなもんだ。

思ったこと。

宗教は人の生き死にに関わってかれこれ何百年。何千年?科学技術が隆盛を極めてからは、非科学的だと揶揄されるけど、科学的に解明されていないものに対抗できるのは非科学的なものかもね。死に際して人が拠り所にできるものは医学だけではなくて、それは友達だったり、絵だったり、海だったり、お酒だったりするだろうけど、宗教から学ぶものはとても多いんじゃないかなあ。
最後にお坊さんを囲んでカオスなzoom画面を見て、誰かが昔のお寺ってこんなだったのかもといった首藤さん。コミュニティスペースなんかよりお寺を活かせ、世界最古のNPOはお寺だ、昔はお寺が社会の隙間を埋めていた。こう言ってたけど、その通りな気がする。実習を通じて疑問に感じていた科学技術という宗教の話。やはりヒントはお寺や神社にありそうだなあ。




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