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デジタル教科書ってサブスクじゃダメなの?

今回は先週、文部科学省でのデジタル教科書に関するワーキングも始まったこともあり、デジタル教科書関連の話をしてみます。
デジタル教科書については諸々論点あるので、数週に渡って色んな角度で書いてみたいと思います(と言いつつ、今回だけになったらすみません)。

なお、突拍子もないこと書いたりしますが、あくまで個人の意見として書いています。当然ですが自分が所属する組織の意見でも何でもありません。あしからず。(リスクヘッジ)


デジタル教科書のこれまでと現状

前述の通り、次の学習指導要領改訂やGIGA端末更新を見据えて、文部科学省ではデジタル教科書の在り方に関する議論が始まっています。

デジタル教科書関連の現状はこれまでの経緯などを知りたい方は、上記ワーキングの事務局資料「デジタル教科書をめぐる状況」にまとまっています。ボリューム多いですが、経緯・現状把握としては最もコスパが良いです。
今後、このワーキングでは多角度でデジタル教科書の今後について議論がなされていくのだと思います。

が、今回テーマにする「デジタル教科書のサブスク化」は、恐らく制度の壁やパンドラの箱感あって議論されないのじゃないかと思っています。なので、空気読まずに自分が書いてみようと思った次第です。

なんで教科書のサブスク化?

そもそもサブスクってどんな意味で使おうとしているのか、の定義を。
今回は「定額料金で一定期間、商品やサービスを利用できる仕組み」として「サブスク」を使っています。

デジタル教科書をサブスク化するってことは

  • どの出版社の教科書も、採択とは関係なく利用できる

  • 自分の学年以外も、前も先も利用できる

ということ。
この前提に立つと、色々思いつくこと皆さんもあったりしませんか?
いくつかポイント書いてみたいと思います。

子どもが学び直しに、状況に応じて先を、特性に応じて学べる

教科書って同じ領域でも、出版社によって表現や進め方が結構違います。
自分の母(元校長)もとある教科書の執筆に関わっていたことがあり、関わる先生も教科書会社の編集者も魂込めて制作しているのを横目で見ていました。

その粋が教科書として出力されている訳で、多様な教科書が使い放題って「個別最適な学び」を実現する重要なリソースになるのじゃないでしょうか。
その子の理解の状況に応じて、学び直しに、先を学ぶ。興味関心や特性によって学び方を変える。
教科書を選べ、戻り・先に進める、とういのは結構重要な要素ではないでしょうか。

一方で、現行の教科書が「先生を介した授業」に最適化されているので、学習者主体の教材として活用され得るのか、というツッコミもありそうです。

確かにそういう面があるのは事実だと思います(一方で、既に現行の教科書も必ずしもそうではない面もありますが)。
でももしサブスク化すれば、その仕組みの特性を考えると、自ずと学習者を起点にしたデジタル教科書に近づいていくのではないでしょうか。
以下の記事にあるようなティーチャープルーフからリソースブックへの変化が加速することが想像できます。

教科書はティーチャープルーフ・カリキュラムだという言い方がある。ウォータープルーフで防水なので、ティーチャープルーフは悪い教師に影響を受けない、という意味。それによって、質の保証が保たれている一方、教師の自立性とか創造性を減殺することが問題になる。そう考えると、教科書はリソースブックであるべきで、全部使わなくてもいい。こうした教科書の意味付けは、カリキュラムをどう考えるか、現場の先生の専門性をどう考えるか、ということとの関係性でみるといい。

個人的には、こここそがサブスク化の本命的な価値に見ています。

先生が授業準備に使える

前述の通り、教科書は実践者や研究者、教科書会社の編集の方々などの粋を集めたもの。であれば授業準備・教材研究の材料としては相当な逸品であることは間違いないです。
実際、妻は理科の専科教員ですが、採択されている教科書以外も読んで教材研究をすることもあったりします。以下にもそんな事例が。

そこまでやる先生は多くない、とは思います。
が、「教材研究として複数の教材を比較する」という抽象度だと比較的良くあることのはずで、教科書の事例が少ないのは「容易にアクセスできないからではないか」と。
この辺もサブスク化のメリットになってきそうです。

採択への労力・事務手続き、供給管理コストが下がる

そもそも利用する教科書は、義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律にによって、公立小・中学校は学校設置者=教育委員会による広域的な採択と決まっています。

サブスク化するってことはどれを利用してもOK、そもそも採択の手続きが不要になります。
どこの学校にどの教科書を何冊配布するのか、管理も不要。
教育委員会や現場の労力や事務手続き、管理コストを大幅に減らせるのではないでしょうか。

営業が不要で制作や活用に注力、特徴的な教科書も増える

採択が不要になるというこは、採択してもらうための活動≒営業も論理的には不要になります。

制度的な建付けでは、そもそも教科書採択は独立性が高いものとされていて、外部影響を受けず教育委員によって教科書の中身で選定されているはず。
が、そんな建前とは別に、実態としてはアピールをする営業活動があるのが実態で、その行き過ぎた例が以下の事件になっているのだと思います。

さすがに上記のような極端な事例は既に無いと思いますが、、(とはいえ、この事件の5年前に独禁法違反で警告受けていたりします)

でもサブスク化によって営業不要となれば、いかに使われるかが教科書会社としては収入の肝になります。
そうなると、より一層中身の充実の議論になり、利活用の支援に力を注げるようになるのではないでしょうか。
(それはそれで別の問題が発生するかもですが、相対的には良くなりそう)

また、今は広域一括採択なので、中身も万人受けする教科書の方が採択されやすい環境だと言えます。
各々が各々に合わせて利用する、となると万人受けではなく個別受けの戦略も取れるようになります。
教科書の多様性の拡大にも寄与するのでは、と思いますし、それが学習者や先生方の選択肢の拡大にも繋がってくるのでは、と。

過去の教科書見られない問題の解消

今のデジタル教科書って、クラウド配信のアプリ(SaaS)なので、当たり前のことですが契約期間内でしか使えません。

紙の教科書との違いは権利の違い。紙は所有権。デジタルは利用権。

https://president.jp/articles/-/49689

過去の教科書見る機会がそんなあるのか、とも思わなくないですが、学び直しが必要なときに使えないのは紙より劣る部分。これもサブスクだと解消。

実現には法令や制度、仕組みの壁

などなど、子ども、先生、教科書出版社、教育委員会、紙比較のの劣後の解消、と観点別に主なものを書きましたが、他にもいくらでも(は言い過ぎですが)色々思いつきます。

一方で勿論、実現するには制度や仕組みなどの壁がたんまりあります。

前述の通り、利用する教科書の決定は、公立小・中学校は学校設置者=教育委員会による広域的な採択と決まっています。
各地域の教科研究会も同一教科書であることが前提で実践の共有・議論がなされているでしょうし、デジタル教科書のビューア・配信が統一されていない問題も障壁になります。
※以下は3年前に書いたnote。この時からサブスクが念頭にありました。

なによりも、学習指導要領自体が一定の順序を示し、それを踏まえ学びを構成する教科書は、各社が創意工夫して効果的な系統性を体現してきたはず。

新学習指導要領における算数・数学内容系統一覧表(啓林館)

これまで教科書会社の皆さんや研究者・実践者の方々が積み上げてきた系統性が、日本の教育の底板を維持していたと言っても過言ではないのだと思います。

個別最適と系統性との衝突

一方でその系統性は、個別最適な学びを突き詰めていくと衝突が起きます。

個別最適な学びって、その子の「特性」を起点に「何を(What)・いつ(When)・どこで(Where)・誰と(with Whom)・どうやって(How)」を容易に選択できる状態を指していると考えています。
そうなると、系統性もその子に合ったものである必要があります。
それって今の指導要領や教科書が体現する一般理論的な系統性から外れる可能性が高く、底板を外す要因にもなりかねない。

だからこそ、底板を維持しつつ個別最適を実現することにデータが必要になってきます。

底板を維持することと同時に、今は抑えられてしまっている天井や横壁を解放していくこと。
その両立こそ、デジタルやデータの本質的な意味を見出すポイントなのでは、と考えています。

デジタライゼーションからDXへ

DX(デジタルトランスフォーメーション)には3段階あると言われています。
第一段階がデジタルへの代替:デジタイゼーション。第二段階がデジタルによる業務変革:デジタライゼーション。
そして最終段階が、デジタルによる価値基準の転換:デジタルトランスフォーメーション(DX)

DXを目指すのであれば、代替や拡張ではないモデルを。デジタル教科書においては、その1つがサブスク化だと考えています。

実は相性の良い教科書予算の定額制

前述した文部科学省のワーキングでも、参加している方々には将来の絵姿として念頭にあるのでは、と勝手に考えています。
でも、色んな意味や観点でハードルが高すぎて現実性がなく、今後も議題にはあがらないのじゃないか、と思って今回は空気を読まずに書いちゃいました。

でも、dマガジンなんかが典型で、書籍のサブスク化ってとっくに社会実装されています。ビジネス構造(ex. ページビューでお金を分配)としても、技術(1つのビューアで様々な雑誌を表現)としても、既に枯れたものとして確立しています。

実はサブスク化の一番の問題はお金の構造だったりします。個別支払いから定額制への変化が最大の障壁。
でも、教科書って国が定額の予算を毎年確保し、一括での購入契約によって買い上げをしています。

つまりは、サブスク化の最大の障壁であるお金の構造は最初から取り除かれています。
なので、これは勝負のしがいがある=社会として投資をする選択肢としては悪くない、と個人的には考え、今回の突拍子もないnoteを書いてみました。

おわりに

ということで、デジタル教科書のサブスク化について書いてみました。
なんか鬼なのか蛇なのかが出るヤブをつついた感もあるので

あくまで個人の意見として書いています。
当然ですが自分が所属する組織の意見でも何でもありません。あしからず。

ということを改めて書いておきます(しつこい)。

ただ、教科書のサブスク化って皆さんも様々思うところがあるのでは(そもそも教科書が大事なのか、みたいな話も含めて)と思います。
是非ご意見をもらえたらと思っています。

次はデジタル教科書を利用するために必要な手続きが多いこと、現場が大変になっていることとか書こうかな。

ではまたー。

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