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【移住4ヶ月】住んでみて気づいた、子育てと人間関係の大きな変化をまとめてみる。

東京を離れて4ヶ月。

3歳の娘が、いい具合に野生児化している。

好きな遊びは、泥と水。当初、慣れなかった幼稚園でも大好きなお友だちができて、毎日、靴を泥んこにして帰ってくる。靴と服の泥落とし。それが夫婦の日課になりつつある。水たまりを見かけても、止めることはない。行ってこーい!という感じである。汚れることへの思い切りの良さ。それは、東京を離れて得られたひとつのメリットかもしれない。

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(野鳥の森の「川遊び体験」のイベント)

コロナ以降、地方移住が加速している、という。

知り合いも何人か、東京周辺へ住処を替えたと聞く。はたして一過性のブームに過ぎないのか。不可逆的な流れなのか。

地方での暮らしで気になるのは「教育」と「人間関係」のことではないだろうか。その二つについて、今感じていることを書いてみます。

・予想以上に親子で楽しめる「自然」という教育

学校・教育の問題は、住む土地を決めるときにとても大きな要因になるのは間違いない。僕らの場合、風越学園が開校するタイミングだったことは、たしかに移住を後押しした。でも、特定のどこかの学校に入る、ということだけでなくても、自然が周りにあるだけで、子どもの環境は、比べ物にならないくらいよくなるのではないか、と感じている。

東京での暮らしの時に違和感があったのは、生活の一部が「効率化」の名の下に、どんどんアウトソーシングされることだった。子育てや教育も例外ではない。たとえば、「遊び」もお金を払っていかに「良い体験」っぽいものをさせられるか。少しひねた見方かもしれないけど、そんな競争に感じられた。

世田谷に住んでいる時は、電車を乗り継いで、キドキドへいき身体を動かすことが多かった。でも、そこは作られたものだけで完結してしまう。予定調和な遊び方に、物足りなさを感じていた。(もちろんキドキドが悪いわけではなく、場が限られているという問題なのだと思う)

その点で、こちらにきて痛感するのは、「自然」は偉大だという気づきだ。

うちの庭に、鳥の巣箱を設置し、家庭菜園を始めてみたが、たったそれだけのことで、これまで知らなかった発見がたくさんあった。巣箱にヒナが生まれていて、そのことから、シジュウカラの一生に興味をもつ。何度も巣を往復して、作った巣の複雑さに驚く。年に2度も生殖にチャレンジしていることをしる。世の中ってまだまだわからないことだらけだと心から実感する。人間にはとても再現ができない生態系を生み出し、見事に調和している。そんな驚きを、子どもと共有する。

先日、野鳥の森ピッキオのネイチャーツアーで「獣道」について覚えた娘は、見かけるごとに、「獣道!獣道!」といっていた。人間が通り過ぎてしまう、動物目線の「通り道」に目を向ける。そのことで、山の見え方が幾層にも複雑化する。

自然を見ることで、世界の解像度がググっと上がる

単調ではなく、カラフルになる。

創ることが複雑で手間がかかり、時間もかかるモノだと知ることができる。

その実感は、間違いなく、子どもの「軸」になるのだと、いまはとことん信じられる。

たしかに、東京の教育機会は高い。学力が身につくだろうか? そんな心配を東京を離れる時に気にしなかったと言ったら嘘になるけれど、結局、その学力とは受験という競争のための「武器」を身につけるため。もし、点数競争がもし今以上に不要なものになっていったら、その価値も相対的に下がっていく。最近では、そういう風にも考えて、ひたすら子どもが心からワクワクする場をめざすように心掛けている。

・人間関係=「人的資本」って本当にあるの?

地方には、都市にはない「人的資本」が生きている、という。

本当なのか? キレイゴトじゃないのか? 人間関係は面倒ではないのか? そんな疑問も、もしかしたらあると思う。

地方に住んで感じるのは、人とのかかわりがひらかれていることだ。金銭に媒介されないコミュニケーションが豊かだとも思う。地元が同じで、急に親近感を覚えるあの現象が、移住同士のつながりにも生まれやすい。人が東京ほど多くないので、単純に人疲れしない、という点も大きい。

都心では人間関係のめんどくさい部分を、お金で解決する。オンラインサロンのような金銭を媒介としたコミュニティであれば、集まること・信頼関係を築くことの手間隙を省いてしまえる。

そこが大きな違いかもしれない。雪が降ったら雪かきに参加し、ゴミ拾いにも、草抜きにも、「身体的に」参加しないといけない。お金を出しておしまいではなく、人生の時間を差し出す必要がある。対面が大事。だから物理的に、人間関係を大きく広げることはむずかしくなる。必然的に身の丈にあった関係に落ち着いていく。それが心地よいと思う人もいれば、もどかしく感じる人もいるかもしれない。

合理的に、効率的に。

すべてに意味を見出して、意味のないことを徹底的に排除していくと、地方での暮らしはしんどくなるような気がする。

たしかに、僕らが、資本主義で生きていることは、否定しようもない現実。でも、そのど真ん中で「経済を回す」ことに加担しすぎない生き方もありえるのではないだろうか。

たとえば、キッチンガーデンをつくって
子どもが大葉を摘んで食卓に並べる。
大葉は市場から調達したものではない。
この経験は、この子にどんな影響を与えるだろう。
お金を媒介にせずとも、自然からの恵みで生きる術を見出す。

では、それをおすすそわけして、物々交換していったら?

お金ではなく、労働で対価を支払っていったら?

模倣や拡大路線をめざさない独立系の店舗で、人とものが媒介されていったら?

ショボいと思われるかもしれないが、その回転を生活レベルに広げていくことに可能性をかんじている今日このごろ。

資本主義、成長原理主義、上昇志向。
地方移住は、そこから少しだけはみ出すことにも近いのではないだろうか?

※ロイヤルリゾートのリゾートテレワークに取材いただきました。移住のきっかけを丁寧に記事にしてくださっています。

この記事は「投げ銭」記事です。サポートいただいたお金は、家庭菜園で野菜をつくる費用に投じていきます。畑を大きくして、みなさんに配れるようにするのが夢です。