軽井沢に子育て移住してうまれた子どもの変化、そしてそれ以上に大きな親の変化
先日、娘が通う学校(幼稚園)で年度の最後の登園=「おわりの日」を迎えた。思い返せば一年前。ワクワクにあふれた東京からの引越し。開校を迎えたタイミングでのまさかのコロナ禍。オンライン登校。そして、登校がはじまってからの学校づくりの1年。
ただでさえ大変なはずの学校づくり1年目が、大きな制約を受けながらとなり、それでもすばらしい1年のおわりを迎えられたことに、スタッフの方には感謝しかありません。
今回の投稿では、保護者の視点で、4歳の子がどのように変化していったのか、を書き残しておきます。子の変化について記すことは、親の心境(子どもを見るまなざし)がどう変わっていったかを書き残すことに等しいと思うから。
1・場に馴染むむずかしさ
自然のなかでのたっぷりな外遊び。
そういうととても聞こえがいいのだけど、入園当初、うちの娘は場に馴染むのに苦労をした。毎朝、送迎をするのは父の役目。しかし娘は、「つどい」と呼ばれる輪に入るのに、泣いてなかなか離れようとしない。ありがたかったのは、スタッフの方が無理に輪に入れることもなく、少し距離をおいて輪に「入らない」そのままの娘を認めてくれていたことだった。
とはいえ、ここでは、子どもの先回りをして、手取り足取りで面倒をみてくれるような「かかわり」はしないようだった。今思うと、そのかかわり(学校のサイトでいわれているような「過不足ないかかわり」)が、娘にとってもすごく有り難いものだった気がする。
娘は、自ら「輪には入らない」という選択をした。
学校まではいくものの、輪の前で「入らずに、ここにとどまる」という主張をしていたようだった。スタッフの方は、そんな娘に、半日ほどつきあってくださって、一緒に散歩をしてくれたりした。
後日、スタッフの方から聞くところによると、「輪から離れているけれど、話に耳は傾けている様子」「これが今、彼女がとりたい距離感だと感じ、そのままにしていた」とのこと。
ここで親としての僕は、軽く衝撃を受ける。
場に馴染む・輪にすんなり入る、ということは良いことで、それができないのは直すべき課題…そんなふうな目線で、子どもの行為をみていた親としての自分に気づかされたからだ。僕は、娘が「輪に入るか・入らないか」ばかり(結果・状態)に目を向けていて、そこで取ろうとしている彼女の態度(集団に対する距離のとり方)にはまったく目を向けられていなかったのだ…。
この、自分の解像度の粗さ、とでもいうべき、衝撃はこのあと何度もぶち当たることになる。
2・「できない」自分に出合う
戸惑いの春から夏へ。
自然を通して、ダイナミックにあそびながら、友だちとのかかわりにも変化がうまれていた。川下りや崖登り。もともと体を動かしてあそぶのが大好きだったからか、体を動かすことで、言葉が出てくる。友だちとの自然なコミュニケーションが生まれてくる。こうして、1年をとおしていつも一緒にいる仲良しの友だちに出合うのもこの頃。
半期に一度の面談で、スタッフの方がうれしそうに話してくれたエピソードが印象的だった。
「いつもはお友だちと同じ行動をしてよろこんでいるけれど、この前は、『私はこっち!』とちがうルートで校舎に帰ろうとしたんです」
誰かと一緒がたのしい。でも、誰かと一緒じゃないことをしたい、自分もいる。そんなちょっとした変化を、敏感に見守ってくれている安心感を感じた。
こんなこともあったそうだ。
ホームで手を挙げて、みんなの前で話したいことを発表する「おしらせ」。娘にも、みんなの前で話す「おしらせ」の機会が回ってきた。
でも、そこでうまくしゃべれない。
後日、スタッフの方は、そんな娘の様子を「できないと出合っている」と表現されていた。
「話したいけど、あれ?おかしいな?言葉が出ないな、と出合っているようだった」
いつも見守ってくれるスタッフの「きろく」を拝見して感じるのは、子どもたちのプロセスとそこにあるきもちの動きにググッと伴走してくれている姿勢だ。
大人は、どうしても結果ばかりみてしまうし、それをジャッジしたがる。
輪に入れたか? なぜ入れないのか? どうすれば入れるようになるか?
人前で話せないのか? 話せるようになるにはどうするか?・・・・・・・・
でも、そもそも、人前でスラスラ話せる子どもがよくて、話せない子がダメなんだっけ? いや、そもそもそこにいいも悪いもなくて、結局、子ども自身はどうしたいのだっけ? いやいやいや、どうしたい、の前に、今人生ではじめての場面に遭遇して、どんな心の揺れをキャッチしてるんだっけ?
こうして、今目の前で起きている出来事をこまかく、解像度高く、みていくと、そこには誰とも比較できない、子どもの「はじめて」があったりする。
まずは自分の中の自分と出会う。
その時間をたっぷりとってくれる。
まずは親が社会のメガネを外して、目の前のことをしっかり見届けてあげなきゃ。スタッフとのやりとりはいつもそのことに気づかせてくれる。
3・トラブルも先回りしない
こうして一年を終えてみて、なにより親が教えられる気持ちになる。
たとえば、「多様性」や「インクルーシブ」って言葉でいうのは簡単だし、批判のしようがないけれど、そもそもそれを口にしている側が差別を内在化したりしている。
この前も、保護者の方といインクルーシブについて話をしていたときに「多様な子を受け入れてあげる」あるいは「受け入れてあげるかどうか意見を求めて決める」といったスタンスの人がいると聞いて、なんだか議論の大前提からしてまちがっていそうだ。(でも僕はもちろん門外漢なわけだから現場の苦悩を理解できていないだけなのかもしれないけど)
スタッフの記録を読んでいて、思われるのは、子どもたちは「一つの劇」を演じようとしていない、ということだ。
たとえば、子豚役、小人役、木の役…などなどやりたい「役」が集まって一つの演劇をつくりあげる、というわけではなくて・・・・・
劇をただ見てるだけの人、筋を考える人、勝手に別の劇を始めちゃう人……などなど、ストーリーに押し込めるのではなくて、それぞれの好きなことが集まって、独自のストーリーになっていくような・・・・・・
いや、そんな子どもたちの活動の報告を読んでいて、いつも思うのは、子どもすげー。凝り固まって世界をみているのは、大人の方ばっかりだ。
ということだったりする。
もっとゆっくり、成長を待てる親でいたいなぁ、と願いながらも、バタバタと子育てに追われる日々が、今年も過ぎていきそうです。
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