長崎原爆記念日に寄せて
先日「日本被団協」がノーベル平和賞を受賞したので
自分のAmeba記事の中の「今1番ハグしたいのはだれ?」という
ブログテーマで2021年8月9日に投稿した記事をupしてみた
🌸3年前に天に召された母かな!?🌸
2021年8月9日は
オリンピック開催での
祝日移動で3連休だったが
コロナ禍の為帰省せず
3年前に他界した被爆者だった
母の生涯を思いながら
テレビに向って黙祷をした
母は、14歳のときに
通っていた爆心地の専門学校で
たまたま家業の手伝いがあって
学校を休んだために
直被爆を免れたが
同級生のほとんどが
即死したことに対して
その場に居なかった自分たちだけが
生き残ったことを
ずっと申し訳なく思っていて
大人になってからも
生き残った同級生たちと
慰霊会をしていたようだ
投下の翌日から
学徒動員で登校を促され
真黒に焦げた同級生の骸を
小さな手で運んで
荼毘にふす作業を強いられたために
数日間二次被曝に曝された
当時はそれがどれほど
危険な事なのかを誰も知らなかった
その後母は結婚して
無事子ども3人を産み育てたが
30歳を過ぎた頃から
入退院を繰り返したので
私は学校から帰ると
毎日家の手伝いをしたが
兄2人は部活や遊びで夜になって帰って来て
家の仕事を全く手伝わなかったので
私は自分だけが家の犠牲になっていると感じて
不満を抱いていた
いつかこの家を出ようと思っていた私は
高校を卒業して就職した銀行を辞めたあと
母の痛みや苦しみを慮る事も出来ないまま
家を飛び出した
私はその後東京で嫁いだが
嫁ぎ先の姑が50歳で逝去してしまい
子育てと舅の介護で多忙な日々を送っていたので
60歳過ぎて薬漬けとなって入退院を繰り返す母や
癌で闘病する父の介護を長男の嫁だけに頼っていることを
申し訳ないと思いながら
帰省して手伝うことがかなわなかった
実は私が実家を出た最大の理由は
父は軍隊生活が、母は被爆体験が影響していたのか
両親ともが家族に対しての愛情深さが半端なかった
私が成長して就職してからもそれは続き
私はその過保護に息が詰まりそうだったからなので
母と同居している兄夫婦のストレスの強さは
簡単に想像できた
父が他界したあと
寂しいと何度も電話をしてくる母に
自分たちと同居して東京の病院に通うように
何度も勧めたのだが
母は自分は長男夫婦に面倒を見てもらうから
お前は自分の息子の面倒をみろと言った
本音を言えば
大学に通う息子との母子生活は経済的に大変で
母の年金があれば生活が楽になるし
被爆者は医療費が無料なので
その方が皆にとって良いのではないかと思ったし
最後くらいは母親と暮らしたいと思ったのだが
私の思いは叶わなかった
しかし、まあ、親子というのは不思議なもので
母が天に召されたあとの方が
いつも母が傍にいて
見守ってくれていると感じている(*´▽`*)
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