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瓦版に野次

■月末に控えた引越しに備えて、着実に部屋の片付けが進んでいる。今回の引越しでは、かなり多くのもの、これまで僕の人生に必須だと思われてきたものやかつての商売道具など、相当部分を片付けるつもりだ。とは言っても、さすがに捨てるのが難しいなというものは、一旦実家に置かせてもらうが、とにかく手元から離れたところに置いておくことにした。

 大学を出てから十年ほど経つが、これまではずっと音楽というところをメインにやってきたつもりではあったが、僕は自分で表現したい何かを表現するために絶対に音楽じゃなければいけないと思っていたわけではなかったと思う。もっと若かった頃は、憧れの誰かになりたいとか、そんなことを思ってやっていたが、実際自分以外の誰かになれるわけはなく、いずれは誰もが自分自身の道を模索しなければならない。そうやって自分自身と向き合ってみて、見事に自分が何者なのかがわからなくなった頃に、僕は少しずつ目先を変えてみるという、そういうことを繰り返して今に至っている。

 自分というものがゲシュタルト崩壊する感覚は、ふとした時に突然やってくる。「あれ、俺なんでこんなところにいるんだっけな」「あれ、俺なんでこんなことしてるんだっけな」「あれ、これ俺だっけな」そんなことを思うたびに、自分に対する焦点の置き方を変えなければならない時が来ているのだと気付く。自分自身との距離感がわからなくなってからが人生は面白い。自分が何をしたいのかがわからなくなってからが毎度、新しい人生の始まりだと思う。

 不思議なことに、僕の体は僕が今どうしたいのかを実は知っていると僕は思うので、だから僕はこうして文章を書くことで自分に何がしたいのかを尋ねている。ある意味、霊媒のようなものだ。僕は自分で自分に自分を降ろして、自分で自分に自分を尋ねているのだ。文章を書いたり、曲を書いたり絵を描いたりというのは全て、その媒体、有り体に言えば単なるメモに過ぎない。だから、「こんな文章イカれてる」とちゃんと思う自分がいる一方で、事実としてこんな文章を書いてしまう自分がいる。ただ美しいだけのものも嘘だが、ただ汚いだけのものも同じように嘘だ。そんなことを思いながら、結局大して美しくも汚くもないものだけを書き続ける。そうやって目先を変え続けた先に自分の背中が見える時、僕は人生がメビウスの輪の形をしていることを思い出すのだ。

 「いつかまたこれを迎えに来る時が必ず来る」と、そう思いながらこれまで世話になってきた楽器類を、今や布団置き場になった実家の自分の部屋の二段ベッドの上に片付けた帰り際にふと見た壁にかかったコルクボードに貼り付けられたかつての勲章が、物と記憶との一致を克明に物語っているように思えた。

 ありきたりなことを言うようだが、手放すとは生まれ変わるということだ。僕は今、旧い可能性を捨てて、新しい現実性に飛び込もうとしている。だがその先で、少しでも自分自身であろうとしていたかつての自分に再び出会うことになるのではないかと、そんな予感がしている。

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