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フリーライターはビジネス書を読まない(26)

10日以内に出て行ってくれ
避難所の管理人から退去を求められる被災者たち

芦屋からいったん梅田へ戻って、今度は宝塚へ向かう。
宝塚には「地震が発生した直後に、私立病院の院長が病院の救急車を使って、自分だけ逃げてしまった」という噂が立っているという。
当時すでにインターネットはあったけれど、TwitterのようなSNSはなく、噂の拡散はまだ口コミが主流だった。
いったいどこから、そんな噂が出たのか。全国的に広がっている噂だというから、とにかく地元の人に片っ端から聞き込みをすれば、なにか分かるだろう。

結論からいうと、噂はまったく事実無根だった。全国に広がっていると聞いていた噂を、地元・宝塚の誰に聞いても「知らない」という。もし本当の話だったら、宝塚に住んでいる人がいちばん知っているはずなのに。
どういう現象だ、これは?

そのことを版元の編集者に連絡すると、
「もともと無かったことを『ありませんでした』と書く必要はないから、その話題はスルーしましょう」
ということになった。
宝塚の取材では、悪い噂の事実が存在しないことが分かっただけでも収穫だ。

宝塚の取材を終えたとき、日はすっかり西へ傾いていた。初日の取材はこれで終わり。明日は御影から鷹取まで、3日間で最も長い行程になる。


翌日、灘区のある町で公民館として使われている建物を訪ねるため、早朝から電車に乗る。その公民館の管理人が、避難してきた人たちを追い出そうとしているという。その真相を確認するための取材だ。

阪神電車で御影まで行けた。御影から西灘までの間が不通で、代替バスが運行されていた。それには乗らず、目的地の公民館まで歩くことにした。スマホもGPSもないから、地図が頼りだ。
地図上の距離では2km足らず。何もない道なら30分ほどの道のりだ。そのはずだった。

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▲阪神電車「御影」から石屋川方向を見る(1995年3月6日撮影)

御影駅を降りて最初に目に飛び込んできたのは、高架線路を破壊された凄まじい光景。その横を通る道路は通行禁止になっていたので、大きく迂回して石屋川を渡ったところまでは覚えている。そのあと、どこをどう歩いて公民館までたどり着いたのか、あとから地図で検証しようとしても難しかった。目印になりそうな建物の多くが地上から消滅していたからだ。
歩いている最中に見たのは、傾いたビル、工作機械の痕跡だけを残して燃え尽きた町工場だったと推定される焼け跡、1階部分が押しつぶされた戸建て住宅など。無傷で残っている建物を探すほうが困難だった。

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被害の爪痕著しい街並みと地図を照合しながら、公民館を探す。たしかこの辺りという場所まで来ているはずだ。避難所になっているから、無傷で残っているはずなんだが……。
ふと角を曲がると、あった、あれに違いない。2階建ての立派な建物で、外見上はまったく被害を受けていないように見えた。

この公民館は発災直後から避難所になっていて、一時は250人もの被災者が身を寄せた。だが、管理を任されている人物(仮にKさんとしておこう)が1月31日、避難者たちにこんなことを申し渡したという。

「10日以内に、ここを出て行ってくれ」

実際に、小学校の体育館や親戚を頼って、出て行った人もいるらしい。中には倒壊する危険のある自宅へ戻った人もいるという。だが、行くあてのない人たち100人ほどが、3月6日の時点でもまだ避難生活を続けていた。

Kさんの発言の真意と、現在の避難者たちの様子を取材するのが、この日最初のミッションだった。

(つづく)

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