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◆遠吠えコラム「それでも地球は回っている。回っているんだ~岸田首相の『学び直し』発言を巡って」(※写真はいつぞやの空)

 岸田文雄首相が、出産・子育て中の女性の「学び直し」を後押しする―と国会で答弁し、波紋を呼んでいた件について、先日コラムを書いたが、もう一つだけ気に食わないことがある。それは、あの発言を巡るやり取りから自民党が学びを経済的価値に基づいて語ろうとする姿勢が透けて見えたことだ。今回はそのことについて少しだけ書く。今日もやや不機嫌な遠吠え。

 自民党政権は、学術研究予算を「選択と集中」というスローガンのもと、特定の研究分野への集中的配分を進めている。この特定分野とは、短期的に成果が見込めそうな分野のことを指すらしい。具体的には実用化や産業化の見込みがある分野、極言すれば「カネになる」分野だ。一方、長期に及び辛抱強い研究の蓄積が必要とされる基礎研究分野、端的に言えば「カネにならない分野」への配分は目に見えて減少しているという。

 「選択と集中」によって何が起きたかと言えば、日本の学術レベルの低下だ。多様な分野へ予算配分されないことから研究者の意欲低下を招いているという。加えて、応用化学へとつながる土台となる基礎分野への配分が乏しいことから、全体として学術研究の活性化の妨げになっているというのだ。基礎をおろそかにすれば応用が利かなくなるのは当然のことだ。このままいけば、学術レベルが年々落ちて、将来的にはノーベル賞から遠ざかるだろうという暗い未来予想もあるほどだ。菅義偉元首相が在任中に学術会議会員の任命を拒否した出来事などに象徴されるように、自民党政権はどこか学問を軽視しているような姿勢が散見される。

 勉強すればいい大学に入って、いい企業に就職して、いい年収を得ていい生活を勝ち取ることができる確率は確かに上がるであろう。だが、それはあくまで「学び」の副産物であって、最終目標ではないだろう。銀行員の総合職試験や公務員の昇級試験などのように、収入増に直結する学びが確かに存在することは否定しないが、それらはこの世界に存在する学びのほんの一部に過ぎないだろう。

 天文学においては、天動説が2千年近くの間有力な説として唱えられた。中世になって、地球などの天体が自転していることを発見したコペルニクスやガリレオらによって地動説が唱えられ、現在も概ね通用する定説となっている。何が言いたいかというと、「学び」は、世間的には「良し」とされていること、「普通」とされていることが、「果たして本当に正しいのか?」と意地汚く問い続けることに価値があるのではないだろうか。ガリレオは、地動説を唱えたばっかりに宗教裁判を提起され、不遇な晩年を送ることになった。金銭的価値を基準に考えれば、自説を曲げず裁判に臨むという行為は、どう考えても割に合わない。だが、人生の幕を閉じる間際にあっても「それでも、地球は回っている」と自説を曲げることはなかった。金銭的価値を超えて唱えた彼の自説は、2千年近く続いていた「常識」を覆し、人類が生きる世界の解像度を高めた。だからどうした、と言われればそれまでかもしれないが、学びとは、そういうものじゃないか。それでも十分価値があるだと思うが、それ以上何を望もうというのか。金のために学び直しをしようなんて「学び」に失礼だし、そういう考えこそ「学び直し」た方がいいのではないかと思う。
(了)

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