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◆遠吠えコラム・新海誠最新作「すずめの戸締まり」・「終わりゆくこの国の『戸締まり』、それでも『希望』はあるのか」(※ネタばれあり。画像は映画公式サイトより)

 新海誠監督「すずめの戸締まり」を鑑賞してきた。当コラムで今年中にぜひ扱っておきたいと思っていた作品の一つです。かなり雑然としていてまだ整理できていない部分も多いですが、鑑賞直後の新鮮な感想をひとまずここに書き記します。本編の内容に大きく振れる部分(いわばネタバレ)があるので、まだ鑑賞していないという方は、鑑賞後に読んでいただければと思います。とは言いながらも、鑑賞の手引きとなるよう意識して書いたので、読んだ後で本編を視聴しても十分楽しんでいただけるかと思います。久々の遠吠えとはなりましたが、行ってみよう!見ていないという人は劇場へ行ってみよう!「ブラックパンサー」もやっているぞ。

(あらすじ)
 九州のとある離島に住む高校生の鈴芽はある日、「閉じ師」と呼ばれる青年宗像草太と出会う。閉じ師は人々がいなくなった土地に現れるという災いをもたらす「扉」を閉じ、人々を災いから守る仕事で、草太は扉を探して各地を旅している。鈴芽は登校中に立ち寄った廃墟で「扉」を見つけ、開けてしまう。扉からは「ミミズ」と呼ばれる災いをもたらす神が現れ、地鳴りを引き起こす。鈴芽は草太とともに扉を閉じ、災いを避ける。だが、突如2人の前に現れた白猫「ダイジン」によって草太は足の欠けた子ども椅子に姿を変えられてしまう。鈴芽は、椅子に変えられた草太を元の姿に戻すため、ダイジンを追って島を離れ、日本各地にあるという「扉」を閉じる旅に出かける―。

【着実に「終わり」へと向かっていくこの国】
 東京を主な舞台としていた前作「天気の子」とは打って変わり、今作の主な舞台は「地方」。とりわけ、過疎化が急速に進み、衰退の一途をたどる街々だ。「扉」が出現するのは、閉校した学校跡地、廃業したリゾート地や遊園地など、かつて多くの人々の声や人生がまじりあった場所だ。本作は、こうした廃墟に現れる「後ろ戸」と呼ばれる扉を閉める旅に出かけるロードムービーだ。

 私は今、地方に住んでいる。本作で鈴芽と草太らが目の当たりにした風景は、私が住んでいる場所の目鼻の先にも広がっている。高度経済成長期あるいはバブル期にでき、東京をはじめとする都会からの旅行客が家族と過ごしたであろう別荘地。バイカーたちが自慢の愛機を並べて語らったであろう国道沿いのドライブイン。今はかつてのにぎやかさはなく、「営業中」の看板がむなしく掲げられている。バブルがはじけて以降の約30年間、この国の人々の財布事情はすっかり寂しくなった。なけなしの金を地方のリゾート地や遊園地に落とすだけの余裕は最早なく、一人、また一人と足が遠のき、今に至る。店の戸口が再び開くことはもうないのだろう。

 主人公の鈴芽が愛媛県内で出会ったルミは、車窓から遠くの山の上に見える遊園地の廃墟を眺め「あそこが開園した頃はほんまに賑やかでねえ。うちも小さい頃はよう連れてってもろたんやけどなあ―」と在りし日の思い出を語り、「最近そういう寂しい場所が増えたよねえ」とつぶやく。この国は今や、いたるところが廃墟と化してしまっている。そして、その廃墟が再び息を取り戻すことはないだろう。この国の経済はいまだに上向くことはなく、国民の懐は今尚寂しい。加えてこの国の人口は2008年の1億2800万人をピークに減少の一途をたどっている。人口減少の速度は地方ではより顕著だ。人口減少は、市場の狭まりを意味する。スーツ姿のサラリーマンが一日の疲れをいやすために地元の顔見知りが営むスナックで酒を飲み、昭和歌謡を高らかに歌い上げる。作中で何気なく描かれていた神戸のスナックのシーンは、ごく限られた場所で経済が循環する寂しい地方の姿そのもの。夜の酒場に響く昭和の歌謡曲だけが、日本がまだ元気だったころの残り香を漂わせている。

 草太の一族は、廃墟に出現した「後ろ戸」を閉める「閉じ師」を代々家業としている。閉じ師は、人々がいなくなった土地を本来の持ち主、土地を所有している産土神に返す。家を建てたりするときには地鎮祭が行われる。これは、ごく大雑把に言えば、土地への居住、土地の開発を、土地を所有している産土神に許しを請うための儀式だ。「閉じ師」はいわば、地鎮祭の逆のことをしている。「後ろ戸」は廃墟に現れ、中から「ミミズ」が現れて人間界に「災い」をもたらす。廃墟は、産土神の許しで借り受けていたものの、人間が一方的に放棄した土地と言えるだろう。自然災害など、人知を超えた「災い」は古来から神の怒りととらえられてきた。開発した土地を自然に返さない人間に対する神々の怒りが、本作でいうところの「災い」ととらえることができようか。「災い=神々の怒り」を鎮めるために、古来から存在していたのが「祭祀」だ。作中の「閉じ師」は古来より脈々と受け継がれ、人々が消え去った土地を本来の持ち主である産土神に返すことを生業としている。宗太の一族は、「戸締り」を通じて「災い=神々の怒り」を鎮める「祭祀」を担ってきたのだろう。

「後ろ戸」が閉じた土地はどうなってしまうのか。作中では明言はされないものの、産土神に返却されることを考えれば、人間の住む場所ではなくなるということだろう。つまりは原野、自然に帰ることを意味すると推測する。先述したが、日本の地方は今や「後ろ戸」が開くような廃墟がいたるところにある。とどまることを知らない人口減少と、一向に上向くことのない経済の影響で、そうした廃墟は今後もどんどん増えていくだろう。こうしている今も、一つ、また一つと。そうした廃墟を「戸締り」によって自然へと返すことは、人間世界の狭まりを意味するだろう。本作のいう「戸締まり」は、「終わり」へと着実に歩を進めるこの国を、この国の人間世界を、象徴的に表しているのではないだろうか。

【物語に底流する震災の記憶】
 後ろ戸から現れたミミズは、赤銅色の体を天高くつき上げ、大地の気を目いっぱい吸い上げた後、ゆっくりと倒れる。ミミズが倒れた時、巨大な地響きが大地を覆う。ミミズの姿は多くの人には見えないが、出現時には人々が持つスマートフォンから緊急地震速報がけたたましく鳴り響く。地震の多いこの国で、あの警報音を聞いてドキリとしない人は最早いないのではないか。とりわけ、東日本大震災を脳裏に浮かべる人は少なくないだろう。本作の鈴芽もその一人だ。

 彼女は12年前、巨大な地震で故郷を、大切な母親を失っている。12年前の巨大な地震とは、作中では明言されないものの、東日本大震災のことだろう。鈴芽はこの震災で母親を亡くし、九州の叔母のところに引き取られた。物語後半で彼女は、死者が行くという「常世」に閉じ込められてしまった草太を救い出すため、常世へと通じる「後ろ戸」を探しに故郷へ向かう。彼女のスマートフォンの電子地図は宮城県北部の沿岸部あたりを示していた。宮城県北部の沿岸部といえば、気仙沼市などをはじめ地震発生後の津波による被害が甚大だった地域だ。

 故郷で見つけた「後ろ戸」を開けた時、鈴芽の眼に映ったのは、燃え盛る街だった。「後ろ戸」の中にある「常世」の風景は、見る人によって姿かたちを変えるという。鈴芽が「常世」に見た燃える故郷は、未だ脳裏を離れることのない彼女の幼いころの記憶だろう。筆者は震災当時、神奈川県に住んでいたが、テレビの中継で映し出された地震発生後間もない宮城県気仙沼市の惨状を今も覚えている。津波に飲み込まれた町が、夕暮れ時の闇の中でメラメラと燃えていた。燃え盛る炎には押し流された家々の黒い輪郭が浮かび上がっていた。あの日テレビの前で呆然と立ち尽くしながら見ていた風景は、本作で鈴芽が「常世」に見出した風景と重なった。鈴芽のような被災者は、燃え盛る街を間近で見ていたことだろう。雪が降りしきる中、がれきだらけの町を4歳の鈴芽が行方知れずの母親を探すシーンなども胸が苦しくなるほど痛ましかった。

 震災から10年余り。道路が拡幅され、新しい道の駅ができるなど復興が進んだ場所がある一方、震災後にもともと暮らしていた住民が戻らず、廃墟と化した地域も少なくないと聞く。鈴芽の故郷と思われる宮城県北部沿岸の津波の被害があった地域などではより顕著だという。作中で鈴芽が故郷へ向かう道中で目の当たりにしたのは、撤去されていないがれきや壁が植物を覆う家々、人々が消え廃墟と化した街々。つまり、10年余りたった今も尚残る震災の傷跡だ。草太の友人の芹澤は、震災で被災した海辺の風景を眺め、「この辺て、こんなに綺麗な場所だったんだな」とつぶやく。「こんなに」とあるように、彼の言葉は、東京に住んでいた者がイメージしていた被災地とはあまりにも印象が異なる景色だったからこそ発せられたのだろう。しかし、その言葉に鈴芽は驚きと戸惑いの表情を浮かべ、「ここが、きれい?」と消えてしまいそうな声で応じる。東京に住む芹澤と、震災で故郷や家族を奪われた鈴芽との間に横たわる埋めがたい溝が提示された、静かながらも強烈な印象を与えるシーンだった。

 新海誠監督は小説版「すずめの戸締まり」の「あとがき」で、自身が38歳の時に発生した東日本大震災が、その後の創作の通奏低音となっていると言及している。「なぜ。どうして。なぜあの人が。なぜ自分ではなく。このままですむのか。このまま逃げ切れるのか。知らないふりをし続けていたのか。どうすれば。どうしていれば」と考え続けることが、アニメーション映画を作ることと重なっていたと語っている。新海監督の言葉が示すように、日本人の多くが忘れることのない「あの日」の記憶を呼び起こすほどのディティールにこだわりながら、震災と対峙した物語といってよいし、今だからこそ作る意味があったと言えるだろう。

【「君の名は。」「天気の子」を経て…】
 震災で母を失った鈴芽は、人の生死が人知では抗えない運命によるものだと痛感している。だが、目の前で大切なものが消え去ってしまうことも耐えがたいのだろう。彼女は、地震を引き起こす「ミミズ」を食い止める草太の家業を「大事なこと」と自信に満ちた声で述べ、「戸締まり」の旅に同行した。「君は地震を止めたんだ」と草太から言われた時の彼女の喜びはいかばかりだっただろうか。会って間もない草太を「常世」から救い出そうとするすずめの行動は、彼女の震災体験が原動力となっているだろう。人の生死は抗うことのできない運命だとずっと思ってきたが、これ以上失いたくはない。抗える「運命」ならば、抗おうと。

 抗いがたい運命に抗うという点では、隕石で消えた町の人々を取り戻そうとする「君の名は。」と通じる部分がある。しかし「君の名は。」と決定的に異なるのは、主人公の鈴芽がすでに大切なものを失ってしまっているという点だ。その失ったものは、隕石が落ちた町の人々のように、二度と戻ることはないということだ。

 新海監督の前作「天気の子」でも、「失ったもの」は描かれる。主人公の帆高がヒロインの陽菜を救うために天気を狂わせ、雨がやまなくなった東京が海に沈んだ。だが、海に沈んだ地域から移り住んだ「犠牲者」たちは、「世界なんて元々狂っているんだから」などと彼らの選択を免罪する。対して本作の鈴芽は「失ったもの」を(無かったことにはせず)今も抱き続けながら、これ以上失うまいと圧倒的な運命に抗う。大災害を扱った直近2作品と一線を画する新たな境地がうかがえる。

 喪失を抱えた彼女だからこそ、響く言葉がある。鈴芽は、震災で帰らぬ人となった母を探して常世に迷い込んだ4歳の鈴芽、過去の自分と対峙する。鈴芽と対峙した高校生の鈴芽は、おかあさんがもうこの世にはいないことを改めて実感する。母親の死を心の底から受け入れることができずにいた12年間。でも、このままではだめだと、自らを奮い立たせ、傷ついた少女に語り掛ける(以下引用)。

「あのねすずめ。今はどんなに悲しくてもね―、すずめはこの先、ちゃんと大きくなるの」
(中略)
「だから心配しないで。未来なんて怖くない」
(中略)
「ねえ、すずめ―。あなたはこれからも誰かを大好きになるし、あなたを大好きになってくれる誰かとも、たくさん出会う。今は真っ暗闇に思えるかもしれないけど、いつか必ず朝が来る」
(中略)
「朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返して、あなたは光の中で大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと、決まっていることなの。誰にも邪魔なんてできない。この先に何が起きたとしても、誰も、すずめの邪魔なんて出来ないの」(引用終わり)

「すずめの、明日」である「私=鈴芽」が語り掛けるこの言葉は、草太とともに繰り出した「戸締まり」の「旅」の中で得た実感に基づくものだ。道端に転がった果実を拾ったお礼に自分を温かく迎え入れてくれた千果。ヒッチハイクしていた自分を拾い、夜食までごちそうしてくれたルミ。共に遊んだルミの子どもたち。突然草太の部屋に現れた赤の他人の自分を故郷へと連れて行ってくれた芹澤。九州の離島から一人で旅をする明らかに訳ありな女子高生を、いずれも見ず知らず人々が助けてくれた。千果に至っては「またおいで」と言ってくれた。旅の中で、いつの間にかできた友たち。失ったものは大きく、もう戻ることはないけれど、生きていれば、新たな出会いがある。素敵な人との出会いが。草太とだって、偶然の出会いだ。そんな偶然が折り重なった世界は、素晴らしいものであふれている。まだ知らないだけで、知らなかっただけで。それをこれから(過去の)鈴芽はいっぱい知ることになる。旅を経た実感のこもった言葉だからこそ、過去の鈴芽は重い腰を上げ、涙をぬぐい、現実の世界へと帰ることができたのだろう。

 鈴芽たちが生きる世界はとても厳しい。国中のいたるところが廃墟と化し、着実に「終わり」へと向かっている。明るい未来は当分、期待できそうもないだろう。「失ったもの」はもう二度と戻らないが、これから新たに何かを手に入れ、生み出すことはできる。生きてさえいれば。「震災」や「滅び」といった圧倒的な現実と対峙しながらも、「それでも希望はある」と、アニメーションという創作・表現を通じて、本作は言い切っていると言えるだろう。いや、アニメーションだからこそ、言い切るべきだったのかもしれない。鈴芽たちは、いつか「終わり」を迎えるその時まで、あの日「ただいま」を言えなかった者たちに代わって、「行ってきます」と「ただいま」を繰り返しながら、希望を紡いでいくのだろう。
(了)

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