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◆遠吠えコラム・「大いなるものには、大いなる『責任』が伴う~長崎の平和記念式典を巡って考えたこと」(写真は熱海旅行で止まったホテルからの景色)

 今日8月15日は日本がアジア太平洋戦争に敗戦した日だ。戦争を経験したことがない若造ではあるが、今日は少しばかり背伸びをして、戦争について自分なりに考えたことを記したいと思う。

 中高生時代に歴史の教科書で習った知識で恐縮だが、それによると、今から79年前の1945年、米軍をはじめとする連合国との戦争に日本は敗れた。同年8月15日には天皇の「玉音放送」を通じて国民に敗戦が告げられた。もう二度と戦争を繰り返してはいけない―との人々の思いのもと、日本は、戦争放棄を掲げた日本国憲法を新たに制定し、焼け野原から再出発した。日本国憲法にどれほどの力があったのかは私にはわからないが、少なくとも日本は敗戦後79年間、他国と戦争をしていない平和な国であり続けた。

 戦争を知らない世代の私にとって、「平和」はごくごく当たり前の日常で、平和のありがたみを感じることは正直あまりない。それ故に、戦争体験者らが訴える「戦争は絶対にいけない」という至極まっとうな言葉などは、終戦記念日が近づく8月近辺にだけ限定的に重みを増す程度だった。

 だけど、敗戦後79年たった8月9日の長崎の平和記念式典を巡って起きた「騒動」は、「戦争は絶対にいけない」というごくごく当たり前の言葉を、殊更、強調せねばならないほど世界がどうかしてしまっている、と戦争を知らない私でさえ思わせる出来事だった。

 長崎市では、アメリカが原子爆弾を長崎に投下した8月9日に毎年、平和記念式典を開いている。式典には、世界各国の政府高官や駐日大使が出席するが、長崎市は今年、イスラエルの駐日大使の招待を見送った。

 イスラエルは、イスラム組織ハマス壊滅を口実に、パレスチナ・ガザへの爆撃を繰り返し、罪もない住民たちの命を奪い続けている。長崎市は、ウクライナへの侵攻を続けるロシアやベラルーシの駐日大使の招待も2022年から見送っていることから、イスラエルも「紛争当事国」と捉え、同様の対応を行ったとみられる。

 イスラエルの招待を見送った長崎市の対応を受け、アメリカやイギリスなどの欧米諸国(イギリス、カナダ、フランスなど)の駐日大使が相次いで式典への欠席を表明した。各国は長崎市に対し、書簡で、イスラエルをロシアやベラルーシと同等に扱うことに対する懸念を示したという。

 欠席を見送ったアメリカをはじめとする欧米諸国はいずれも、イスラエルに親和的な国々だ。国家が始めた戦争によって起きた原爆投下で犠牲になった人々を悼み、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を祈る式典への欠席を表明する一方で、罪もない人々の命を奪い続けるイスラエルに配慮する姿勢を示した。

 欠席表明を決めたアメリカのエマニュエル駐日大使は、父親がイスラエルのエルサレム出身なので、長崎市の対応に思うところがあったのだろうが、そもそも、原爆投下は、式典への欠席を表明したアメリカが行ったことだ。自らが手にかけた人々への弔いよりも、パレスチナの人々の命を残酷に奪い続けるイスラエルに連帯を示すとはどういうつもりなのか。原爆投下による犠牲者や今なお続く被爆者の苦しみに寄り添う気がないのか。

 イギリスに至っては、今、パレスチナで起こっているイスラエルとアラブ諸国の人々との長年の争いを生む遠因をつくった当事者だ。もっと言えば、第二次世界大戦やその後の冷戦とパレスチナでの紛争は、もとをただせば、欧米諸国がその昔、世界各国で進めてきた植民地政策に起因するのではなかったか。

 現代に連なる様々な戦争の種を生み出した「責任」として、世界平和のための努力を人一倍、いや国一倍求められているのが、アメリカやイギリスをはじめとする欧米諸国ではないのか。式典への高官派遣を見送った国々は、核兵器で犠牲になった人々よりも、暴力で人々の命を奪い続ける国に寄り添うことを選んだ。このことが、世界平和にそれほど寄与するのか、私には到底理解できない。核兵器廃絶や世界恒久平和といった理念をさほど重要視していないといわれても仕方ないだろう。実際、欠席の意を表明した国々の多くは核兵器を保有している。

 ロシアのように核兵器の使用をチラつかせながら他国に侵攻するような国も現れている昨今にあって、核廃絶はそう容易ではないことも事実だ。ウクライナでの戦争も、パレスチナでの紛争もいずれも泥沼化し、戦闘終結のめどが立っていない。そうした現実があるとしても、ことあるごとに、「核廃絶」を訴え、「戦争反対」の意を、力のある者こそが訴えなければ、今起きている戦争への歯止めが利かなくなり、核戦争へのリスクは高まり、世界恒久平和から遠ざかる一方ではないか。

 イスラエル大使の招待を見送った長崎市の対応も、実のところ煮え切らない部分があった。長崎市の鈴木史朗市長は、招待を見送った理由を、「平穏かつ厳粛な雰囲気のもとで式典を円滑に実施したい」と説明し、「政治的な理由ではない」としきりに強調した。要は、招待した場合に被爆者らから反発を招き当日の式典が円滑に行えるかどうか懸念があることから招待を見送ったというのだ。本音はどうかはわからないが、戦争を引き起こしている国を招くことが戦争被爆地としてどのようなメッセージを発信しうるか、といったところまで踏み込んで発言しておらず、「毅然とした対応」とは言い難いと、私は思う。

 肝心要の平和宣言では、ウクライナ侵攻についてはロシアを名指しして避難している一方、イスラエルによるパレスチナでの紛争については、「中東での武力紛争の拡大」と表現。「武力紛争」を起こしている主語の「イスラエル」の文言は宣言の中には盛り込まれなかった。ロシアやベラルーシと同等に招待を見送っておきながら、この扱いの不均衡は一体何なのか。

 欧米諸国が長崎の式典に欠席を表明したのを受けた日本政府の対応は、輪をかけて酷かった。林芳正・内閣官房長官は報道の質問に、「式典に誰を招待するかは主催者の長崎市によって判断されたもの」で「各国外交団の出欠やその理由について政府としてコメントする立場にはない」と述べるにとどめた。原爆を落としたアメリカをはじめとする国々とこれらの国々が配慮を示したイスラエルの大使の欠席に対する「遺憾の意」すら表明できないだ。  

 岸田文雄首相は、長崎の平和記念式典当日のあいさつでは以下のように述べている。

長崎及び広島にもたらされた惨禍を決して繰り返してはなりません。
この信念の下、「核兵器のない世界」の実現に向け、現実的かつ実践的な取り組みを着実に進めることこそが唯一の戦争被爆国である我が国の使命です。

長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典での岸田文雄内閣総理大臣のあいさつ(2024年8月9日)

 原爆を投下したアメリカをはじめとする国々の高官の欠席表明に対してだんまりを決め込み、他国の領土に侵攻し、罪もない人々の命を奪い続けるイスラエルに配慮する国々に対して「配慮」することが、「核兵器のない世界」の実現に向けた現実的かつ実践的な取り組みなのだろうか。
 極めつけには岸田首相は当日のあいさつでこんなことも述べている。

 今から79年前の今日、一発の原子爆弾により一木一草もない焦土と化したこの街が、市民の皆様のご努力によりこのように美しく復興を遂げたことに、私たちは改めて、乗り越えられない試練はないこと、そして、平和の尊さを強く感じる次第です。

長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典での岸田文雄内閣総理大臣のあいさつ(2024年8月9日)

 長崎も広島も、近代においては日本の重要な軍事拠点で、佐世保や呉といった軍港では、大和や武蔵など名だたる軍艦が建造された。とりわけ広島は、日清戦争時に大本営が置かれるなどし、日本がアジアで繰り広げた侵略戦争に深く関っていく中で、軍都として繁栄した。こうした歴史的経緯が、原爆投下の標的になった背景といわれている。長崎や広島の人々が経験した「試練」は、国家がはじめた戦争に端を発する。時代は違えど、「試練」を与えた側が、「試練」を乗り越えた人々に、「乗り越えられない試練はない」と称えることがどれほど残酷なことなのか、どれほど被爆者たちの尊厳を踏みにじっているのか、想像できないのだろうか。

 広島や長崎がたどった悲劇は、現代にも通じる。日本国内には、米軍基地が点在している。とりわけ、沖縄県内には、国内の米軍基地の約75%が集中している。沖縄県にある米軍基地には、米軍の海兵隊が出入りしているといわれている。同部隊は、海外での武力行使を前提とし、必要に応じて水陸両用作戦をはじめとする軍事行動を起こせる外征専門部隊で、「殴り込み部隊」との通称もある。つまり、海外での戦闘を想定した体制が沖縄県内の基地で構築されているということだ。アメリカが仮想敵としている国との間に戦争が起きれば、沖縄は「敵国」の攻撃対象になるだろう。

 いつの時代も、戦争を始めるのは権力者だ。始めることができるのだから、終わらせることだってできる。人類の歴史上、2度行われた世界大戦はいずれも、時の権力者たちが始め、彼らが終結を決定している。この仕組みは今も昔も変わらないだろう。核兵器の廃絶を、核を持っている国こそが一斉に「手放す」と本気で決めて、実際に行動を起こせば、核廃絶には近づくだろう。だが、そうした努力を、核保有国はちっともしない。唯一の戦争被爆国の日本も、核兵器の恐ろしさ、被爆の悲惨さをよくよく知っているはずなのに、核兵器禁止条約に参加すらしていない。

 核廃絶や世界の恒久平和の実現を、ほんの少しでも進めようというのならば、アメリカやイギリスをはじめとする欧米諸国がやるべきことは、長崎の式典に欠席をして、戦争当事国であるイスラエルに連帯を示すことではないはずだ。日本がすべきことは、核兵器禁止条約への参加を躊躇い、長崎の式典に欠席を表明した国々に対してだんまりを決め込むことではないはずだ。直ちに核廃絶や恒久平和が実現しないにしても、ほんの少しだけでもいい方向に進むはずだ。そのための努力すら、いずれの国々の権力者たちはできないどころか、その努力を怠っている姿を発信することに何の臆面もないことが、私は恐ろしいと思った。
(了)

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