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◆遠吠えコラム・「利用された『ヒロシマ』~核廃絶から後退した広島サミット」

 すっかり久々のコラムになってしまいました。誠に申し訳ございません。書きたいことはたくさんあるのですが、中々更新頻度が上がりません。まだまだ修行が足らないということですね。

 さて、現在開催中の通常国会では衆議院の解散がささやかれていましたが、一昨日の6月15日の報道陣のぶら下がりで岸田文雄首相は否定しました。この人、ほんの少し前までは「現時点で解散する考えはない」と言っていたのですが、6月13日の首相記者会見では「国会の会期末になっていろいろな動きがあることが見込まれる。情勢をよく見極めたい」と言ったうえで、ニヤリと笑い、「現時点ではこれ以上のことは申し上げられない」と思わせぶりの態度を取っていました。

 まあ、どういう背景があってそのような決断に至ったのか、元から解散するつもりなんかなかったのか、などについてはよくわかりませんが、相変わらず他人の感情を逆なでする人だなあとだけ思った次第です。今回の件についてもそうですが、岸田首相はどこか他人が顔をしかめて嫌がる事や怒るようなことを平気でやる鈍感力豊かな人だなとしばしば思います。しかもそこに何がしかの深い考えがあるのかなあと思いきや、別にそうでもないですよねえ。岸田さんが他人の気持ちを逆なでする件についてはまた改めてどこかで書くかもしれないし、書かないかもしれないです。

 岸田首相が他人の感情を逆なでしたと言えば、少し賞味期限切れのような気もしますが、先月広島で開かれた先進7か国(G7)首脳会議(広島サミット)です。G7サミットにあまり関心を寄せることはありませんが、今回は少しだけ行く末を注視していました。というのも、サミットが開かれる少し前の5月の大型連休中、私は広島を訪れていたからです。

 広島は初上陸でした。サミットが開かれるから選んだというわけでもありません。実は私、かなりの出不精で、これまでに旅行で日本列島の西端は大阪、東は栃木までしか言ったことがありませんでした。せっかくの旅行なので、行ったことがない場所へ行きたいと考えた結果、旅の最大の楽しみである食事がおいしそうな北海道、福岡、広島あたりを候補にあげました。


旅の初日に繁華街で食べた広島風お好み焼き(筆者撮影)

 この3つの中で広島を選んだ理由としては、私は大学時代に原爆文学を卒業論文で取り扱ったことがあったからです。大学時代にも広島へ行きたいと思っていましたが、経済的な理由から叶いませんでした。被爆地広島、長崎へ行ったことがない人間が原爆文学を卒業研究にしていたということにも少し後ろめたさのようなものがあったので、今回、念願叶って行くことができて本当に良かったです。前置きが長くなりましたが、今回は大学時代に原爆文学を曲がりなりにも研究し、広島に初めて降り立った若造の目線でコラムをしたためたいと思います。

「巨大な」街、広島に影を落とす悲しき歴史


広島市街地の国道を走る路面電車

 特急しなので名古屋へ向かい、東海道新幹線に乗り換え、約5~6時間かけて広島に到着しました。広島駅から宿泊先のホテルへと歩いて向かった時にまずもって驚いたのが、町の「大きさ」でした。「大きさ」というと漠然としていますが、まずは市街地の道路がものすごく広いです。片側2~3車線ずつくらいある上に、路面電車が走っていました。路面電車の本数も江ノ電(神奈川県藤沢市と鎌倉の海沿いを走る列車)に負けず劣らずで、町をあるっていれば頻繁に見かけるほどでした。平和記念公園へと続く「平和大通り」も、広々とゆとりをもってつくられた片側2車線ずつの車道の両脇には、街路樹が植えられ、規則的な石畳が施された歩道がある。両脇には十数階建ての大型ホテルなどが林立していました。


広島市街地にある繁華街の入り口(筆者撮影)


広島市中心市街地の繁華街。こんなかんじの繁華街が果てしなく広がる(筆者撮影)

 大きかったのは道路だけではありません。中心市街地の主要道路沿いに広がる繁華街もとにかく巨大でした。国道183号と平和大通りの間くらい、もしくはこの2つの主要道路沿いに1・5キロほどにわたって飲食店や商業施設などが林立していました。京橋川から西へ歩けど歩けど、飲食店街や歓楽街が果てしなく続いていて、人並みが遥か先まで広がっていました。繁華街にはお好み焼きやカキ料理と言った地元名物を出す飲食店はもちろん、パルコや三越といった大型百貨店もあって、聞くところによると中国・四国地方最大級の規模なのだとか。体感ではありますが、単純な広さだけでいえば、新宿歌舞伎町にも引けを取らないほどだった思います。

 歓楽街を西に歩くと、開けた場所にたどり着きます。平和記念公園です。公園の南端には広島原爆資料館があります。原爆資料館から北の方へ眼を向けると、遠くの方に原爆ドームが見えました。広島の街は、原爆資料館と原爆ドームを結ぶ南北の直線と市街地を東西に走る平和大通りで織りなす「十字架」を軸に、概ね格子状に形成されています。平和記念公園の設計者である世界的建築家丹下健三が、爆心地ヒロシマへの追悼の念を込めて設計したといいます。このことが何を意味するか。広々とした道路が交わり、ビルが林立し、大勢の人々や車が行き交うあの巨大な都市、広島の現在の姿は、1945年8月6日に投下された原子爆弾によって規定されているということです。

 原爆資料館では、1945年8月6日以前の広島をCGで再現した図を見ることができました。その図によると、爆心地近くにあり、戦後は原爆ドームと呼ばれることになった広島県産業奨励館の周辺、即ち、現在の平和記念公園に当たる場所には多くの木造住宅が軒を連ねていたことがわかります。街の区画も、かなり複雑に入り組んでいたようです。今の広々とした街の構造からはあまり想像しにくいです。それが、原爆による爆風で一瞬にして更地になってしまったのです。資料館のCGでは、原爆投下前と後の街の姿の違いを見ることができます。写真資料なども展示しています。立ち並んでいた家々はほとんど焼き尽くされ、がれきが散らばった平野に産業奨励館だけがポツンと立っているのがわかりました。軒を連ねていた家々の屋根の下にあった何百、何千の人々の生活が一瞬にして消失してしまったことが、写真からは伺えます。原爆で焼き尽くされた人々が、かつて暮らしていた場所に、広島平和記念公園を軸とした広々とした道路や巨大な繁華街が形成されていったのです。老若男女の明るい声が交わる歓楽街のネオンの光の裏には、原爆によってもたらされた悲しい歴史が暗い影を落としています。

国策が招いた軍都・広島の悲劇

 原爆資料館では、広島の歴史について解説した展示があります。展示によると、広島は明治時代に入ってから、西洋式に近代化された日本陸軍の部隊が配置され、1894年の日清戦争時には陸軍大本営が設けられるなど、軍都として発展し、近代日本がアジア地域で繰り広げた数々の戦争に深くかかわっていったといいます。軍都としての繁栄が、原爆投下の標的になった一つの要因であるともされています。つまり、原爆投下は、国家がはじめた戦争が引き起こした惨劇で、被爆者たちは国策の犠牲者だということを原爆資料館の展示は強調しています。

 アメリカ大統領は外遊する際、核ミサイル発射ボタンを収納した手提げのケースと共に移動すると言います。今回のG7広島サミットでも、例に漏れず、バイデン大統領は、ミサイル発射ボタンと共に広島入りしたといいます。つまり、アメリカ大統領をはじめ広島を訪れたG7首脳は、明日にでも戦争を始めることができ、核兵器の使用を決定できる立場にある立場の人たちです。

 逆に言えば、この人たちが「戦争はやめようよ」と心から思い、行動すれば、悲惨な戦争を無くすことだって不可能ではないはずです。そういった人たちが、被爆の歴史とどう向き合い、どのような声明を出すのか。平和記念資料館や原爆ドームを巡り、核兵器がもたらした凄惨な被害を記録したさまざまな資料に触れた私も、今回のサミットでどのような首脳宣言が出されるか、注目していました。

「広島ビジョン」は核軍縮を進歩させるのか?


平和記念公園から川を挟んだ先にある原爆ドーム(筆者撮影)

 サミット最終日、G7は核軍縮に焦点を当てた初の共同文書「広島ビジョン」を発表しました。サミット議長国である日本の岸田文雄首相はビジョンについて「核戦争は、決して戦ってはならないことを確認した。被爆地を訪れ、被爆者の声を聞き、被爆の実相や平和を願う人々の思いに直接触れたG7首脳が、このような声明を発出することに歴史的意義を感じる」と強調しました。一方、ビジョンでは、戦争抑止のための核保有を容認するといった核廃絶に向けた世界の取り組みを一歩前進させるどころか、大きく後退させたと言っても過言ではない内容が盛り込まれました。戦争被爆地、広島で、このようなビジョンが示されてしまったことは本当に残念なことだと思いました。広島を数日間旅行した程度の私がそう思うのですから、被爆体験者や広島市民の落胆や怒りはいかばかりだったかと、想像せずにはいられません。

 今回のサミットで岸田文雄首相は、広島平和記念資料館への各国首脳の訪問を是が非でも実現させたいと前のめりになっていました。アメリカをはじめ核兵器を保有している主要国に、被爆の実相を知ってもらいたいとの思いがあったためだといいます。ところが、サミット直前には、原爆を投下した当事国であるアメリカ合衆国のバイデン大統領が、平和記念資料館はおろか、広島への訪問自体を渋りました。原爆の被害と向き合うのをためらったためだといわれています。


夜の原爆資料館。昼は大混雑だった。大混雑している様子は撮影し忘れた(筆者撮影)

 最終的に、バイデンは現地を訪れ、資料館も来訪したので、何とか岸田首相は「面子」を保つことができましたが、驚くべきは首脳らの滞在時間です。私は本館から別館まですべての展示を回りましたが、かかった時間は約2時間でした。対して各国首脳らの滞在時間はなんと40分。この時間だと、展示の半分も見ることができないでしょう。しかも、どの展示を閲覧したのかの詳細は非公開となっています。どの展示を見たかくらい別に公開したっていいじゃないか?公開できないってことは何かしらの理由があるはずで、下手したら、ろくに展示を見ないで立ち話をして時間が過ぎた可能性すらあるのではないかと、ゲスの勘繰りをしたくなります。いくら首脳会議がメインだからと言っても、この滞在時間の短さはいくらなんでも広島の人たちをバカにしてるでしょう。

 極めつけには最終日に発表された首脳宣言には、「被爆者」という言葉すら盛り込まれませんでした。G7の首脳たちが戦争被爆の実相と向き合おうという気がさらさらないのは最早明らかです。

 2時間かけて資料館を回った私が一番注目したのは、別館の最後の方にある、核兵器・核廃絶に向けた運動の歴史を概観した展示でした。この展示は、入り口から順番に閲覧していくと最後の方に当たります。恐らく、G7の面々が閲覧していないと思われる展示です。第2次世界大戦中にアメリカが進めた原子爆弾開発の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」、広島と長崎への原爆投下、冷戦中の米ソによる核開発競争など、核兵器にまつわる出来事を年代順に解説しています。

 その展示では、核兵器保有によって侵略戦争の抑止を図る「核抑止論」に基づいて、アメリカとソ連だけでなく、イギリス、フランス、中国、インドといった国々が相次いで核兵器を保有し、世界に核が拡散していった歴史的経過を紹介しています。「核抑止論」の下で進めた核開発が、新たな核開発を生み、核戦争へのリスクはむしろ年々増していると指摘しています。つまり、広島ビジョンが示した戦争抑止のための核保有容認は、核兵器廃絶を促すどころか、新たな核保有・拡散につながる可能性をはらんだ非常に危険な考え方であるということを、資料館の展示がすでに指摘しているんです。広島ビジョンは、こうした資料館の展示、広島が歩んだ歴史をないがしろにした内容で、ともすれば冒涜といっても過言ではないと思いました。あの展示をつくった資料館の学芸員さんやスタッフさんにも失礼です。

 「広島ビジョン」は、今後、核廃絶に向けた国際的な宣言や条約の基準になる可能性が大いにあります。唯一の戦争被爆国を議長国に、戦争被爆地である広島で開かれたサミットで示された―という箔が付いていますが、この点がむしろマイナスに作用し、「唯一の戦争被爆国が議長国だった広島サミットで、核保有が正当化されているんだから、いわんや…」と、今後の核廃絶に向けたさまざまな運動のハードルを下げてしまうのではないかと危惧します。戦争被爆地という文脈を最大限に生かして核廃絶に寄与すべきだったのに、これでは逆効果だ。何のために広島でサミットを開き、ビジョンを示したのか、全くもって意義が見いだせません。核廃絶なんてさらさら進めるつもりがない主要国が、格好だけ取り繕うために「ヒロシマ」を利用しただけとしか考えられません。

 当の岸田首相本人は、「広島ビジョン」についてどこか満足げです。国会で野党から問われると「核兵器のない世界に向けた国際社会の機運を高めることができた」とすら回答しています。広島選出の議員として、被爆地広島で核廃絶を後退させる宣言を出してしまったことを恥と感じないのでしょうか。しかもビジョンには核廃絶に向けた数値目標などの具体的なことが一切示されていません。そんなものにまんまと岸田首相は署名してしまいました。ロシアのように、自国の核兵器をちらつかせて他国への侵略を進めるロシアのような国も現れている国際情勢下で、現実的な判断をしたと言いたいのでしょうが、その現実的な判断が、現実を改善させるどころか、悪化させる一助となりかねないことを、本人は全く理解していないのでした。

大型連休中の宮島。午前中は満潮で鳥居の下まではいけなかったが、昼になって潮が引いて鳥居まで徒歩で行けた(筆者撮影)


(了)

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