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いい人から脱却する

いい人とはどんな人だろう。

『嫌われる勇気』

という本が流行った時期があった。

その一言で感じたものがありありだった。

長年いい人を演じ生きていた人は、いつか自分を暴露し自由に〜

と願っているかもしれない。

人に嫌われるのが怖かったり、自分が嫌に感じても他人を優先し我慢をしてしまう人。

どこか身体が疲弊し、精神疾患程でもないが、安定剤や睡眠薬を常飲してる人。

身体は嘘がつけない、自分に嘘をついているから身体が危険信号をだすものだ。

そう言う人は謙虚で一見いい人そうに見えるが、内在してるものはいろんなものが詰まっている。

自分を中心とし物事を考える、自分を一番に大事にする事がなかなか身についてない人がいる。

吸い付けられるようにエナジーバンパイヤーに自ら向かっていってしまう人。

他人の感情で生きているエンパス、敏感体質HSPの人に多いかもしれない。

日本人は何も言わなくても察知する能力が高い人が多いが、

その反面、社会的構造の決まりや教育によって、本当に感じる事を蔑ろにし、社会や教育に沿って無理やり生かされてる部分がある。

世界から見ても、素直で従順。

その性質を利用され続けていたとも言われる。

子供や若者が、自分の感情に正直に話したり表現したりするのを見て、これが本来の人間の姿、と感心する。

子供は他人にいい人に見られたいとかは思っていない。

他人にどう思われるかを考えるのはある程度大きくなってから、

それまでは無意識な本能で行動する。

しかしある程度、教育で仕上がってしまうと、本音が言えなくなり、自分が感じたままでは生きにくい為、演じる技を磨き、人の目を気にするようになる。

決まりや教育は大事かもしれない。

しかし、本来の個性や人間性、能力は潰される事が多いまま大人になる。

そして人間の脳は2〜3%しか使われていない。

本来のまま生きられず、自分を誤魔化し必死に社会に沿ってを無理をしてると、前者のように病気や精神疾患になる人が多いのではないだろうか。

それにより、医学を頼り薬を出され、保険やら何やらいろんな付属もので武装しなければならなくなる。

それが人間が生きていく社会というもの。

この世の中は、なかなかシンプルに生きれない構造でもある。

人生は何が起きても、波瀾万丈でも、体験を選んで生きているから、それはそれで冒険に来たのだからいいのかもしれない。

しかし、もっと自由に快適に生きたいと望むなら、周りの事より自分を一番に考え、自分の感じるままに生きれば、人に聞く必要はなく自分で決められるようになる。

と言った場合、いい人は、嫌々そんな事は無理と思ってしまうかもしれない。

では、自分という人間をよく観察し、自分が一番要求している事は、何を自分が自分にしてあげたいか、自分に問う。

他人の要求より自分の要求を大事にしてみる。

疲弊困憊した状態で忙しく毎日を生きていると、それが分からなくなってる人もいる。

忙しさが楽しい内容ならいいが、そうでなかった場合は自分に時間を十分与える必要がある。

最初の話に戻るが、前者の人間、それの一部は昔の自分でもあった。

そんな私の元に来てくれる人の中には、そういう人達が多い。


以前「何故嫌いな人と付き合うの」

と初めて知人に言われた時、私が返した言葉は、

「嫌いな人を克服したい」だった。

嫌いな人を克服しなければ自分は救われない、みたいな観念が自分の中にあった。

それは元を辿れば、自分に対する密かな無価値観や罪悪感の観念のせいもあった、

そしていい人ぶってる自分も偽善者的で好きになれなかった。

今はだいぶ外れてきたけれど。

その人は嫌いな人とは付き合わなければいい、と言った。

その考えが自分にはなかったのでビックリした。

その人も私にビックリしただろう。

その言葉はずっと心に刺さり、それは当たり前の事だと後々感心したものだった。

なんて事だ、どれだけ自分を我慢させて、あくせく生きてきてしまったのか。

その人は人に親切だったが、自分に実に正直だった。

自分の好きな人しか付き合わないと断言し、そして自分を大事にする人だった。

自分の感情を何故分かろうとしてこなかったのか?

心理的なことだけじゃなく、社会、教育、秩序、世界、宇宙、頭かじりでもいいから、疑問を追求し感じると、答えは必ず降ってくる。

この世界はすごい!

「井の中のカエル大海を知らず」だったわけだ。

自分の世界とは全く異質の世界を見渡すようになると、自分の観念がいかにちっぽけか。

だんだんに自分にとっての、嫌な事、嫌な人に対し我慢はしなくなっていった。

自分を蔑ろにし我慢しなければなどという観念を植え付けてると、いい人でいる事にいつまでも縛られる。

また性善説観念が日本人には多く、いい人で居れば相手もいい人でいてくれる、と勘違いし易い。

しかし、世の中にはいろんな人がいるし、生まれも育ちも違ければ、価値観も違うだろう。

いい人でいれば平和であるとは限らない。

人の為に、などと言う言葉はこそばゆくてあまり好きではない。

相手が為になってるかどうかはその相手が決めることであって、押し付けるものではない。

人の為に、は、自分がいい人に思われたい為の自己満が大きい事もある。

それが良くないと言っている訳ではないし、偽善者だとしても、相手が喜んでるならそれもいいだろう。

自分が相手の為にしてあげる事が気分がいいならそれで良いし、見返りを期待してなければ後々疲れる事はない。

もし、人の為と称し、自分がエネルギーが枯れ疲弊してるなら、無意識に見返りを求めていた、と気づくだろう。

本当に愛から発するものなら、更にパワーがみなぎってくるし、与えるエネルギーは途絶える事はない。

また、いい人は他人を甘やかし、我儘にもさせる場合もある。

自分と他人は対等で、バランスのよい距離感をとることは大切だと思う。