それは宙に漂う息のような―エンデ『鏡のなかの鏡』
ミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡』を構成する30の小話には、
固有名詞はほとんど出てこない。
大学生。
消防士。
天使。
花婿。
スケーター。
青年医師。
ジン。
道化。
役割や立場を示す語が並び、彼らの名前は出てこない。
人名で目立つのは次の3つだ。
Michael
Ende
Hor
第1話のHor。
この名前の訳し方はもしかすると重要かも、と、
田村訳を読んだとき初めて思った。
Mein Name ist Hor.
丘沢静也は
「ぼくの名前はホル。」
田村都志夫は
「わたしの名はホア。」
私が最初に読んで、今所持しているのも丘沢訳だから、
なんの疑問もなく「ホル」とインプットされていたのだが、
……田村訳の「ホア」。
「眠りと覚醒のあいだのきわどい一線」で聞こえるような、
「まったくの静寂のほんの少し上に位置している」音。
そんな「うすぼんやりとした声」でしか話せないという、Hor。
彼の住む迷宮では、それより大きな声は「こだま」となり、いつまでも彼を脅かす。
第1話はおそらく、ひそひそ声で読むのがふさわしい。
語り手が名乗る“Hor”とは、声になる一歩手前の、息そのもののなのではないだろうか。
「ホル」と「ホア」。
ドイツ語の発音で、正確にどちらが近いのだろうか。
第二外国語がドイツ語だったのだが、よくわからない。
なんとなく、「ホア」のような気がする。
何よりも、「ホア」の方が、一目瞭然の「息らしさ」を持っている気がする。
「息」――spiritus――「霊魂」。
翻訳の自然さは、なじんでいるぶんもあるし、どうしたって丘沢訳の方が上に感じるが、
「ホア」の一点だけでも、田村訳は私の目の前に新たな地平を切り開いてくれたように思える。
おそらく、田村訳は「自然さ」を目標にしていない。
この不気味な、不穏な夢の連なりを、不自然なままに提示しようとしている。
『鏡のなかの鏡』に出てくる主な人名は3つ。
Michael
Ende
Hor
どうしてもこのようにしてしまいたくなる。安易なことこの上ないが。
Michael = Ende = Hor
そうしてしまうと(私が勝手にしたことだが)まるでこの本は自己という迷宮をさまよう「わたし」、決してそこから出ることのできない檻であるように見えてしまう。
高校入学直後、読むもの全てに影響された私には、そう見えた。
しかし、『鏡のなかの鏡』は脱出の物語でもある。
脱出を夢見る物語でもある。
夢は、想像は、現実に穴をあける。
第24話では、「終わり(エンデ)」と名乗るパガドが、自分を想像の力で呼びだした子どもに「ミヒャエル」という名を与える。
破壊されつくした都市から、二人は手に手をとりあい出発する。
(↓↓冒頭の詩はあきらかに、『鏡~』の第1話の影響をもろに受けている)
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