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ファンタージエンからの帰還者が語るミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡』

わたしの読書録

高校受験が終わったころから、「読書録」をつけるようになった。大学を卒業する間際から、「エセ読書家」を目指し(なぜ最初から「エセ」を目指すのか)、暇にまかせて手当たりしだいに読みちらした。読書録に並ぶタイトルは2022年12月の現在、2300以上。それはもはや「自分史」でもある。
 
高校の友人にすすめられて読んだ『ハリー・ポッター』の原書、思えば英文科に進んだのも半分以上はあのシリーズのせいだったよね、とか、
なぜに「ぼくらシリーズ」を高校のときあんなに読んでいたのだろう、大学受験の面接でも好きな国内作家を「宗田理」と答えて教授に苦笑されたものだった、とか、
ハリポタの新刊が出ない間に『ダレン・シャン』に浮気して、新宿の紀伊国屋までわざわざ原書を買いに行っていたなぁ、とか、
大学の友人のすすめにより荻原規子梨木香歩に出会って、国内ファンタジーのよさに目覚めたのだった、とか、
中高時代には「スレイヤーズ」「魔術師オーフェン」シリーズにはまっていたんだっけ、「ゴーストハント」「デルフィニア戦記」にハマっていたらどうなっていただろうかとか、
「図書館の魔女」シリーズの続きはいつですか高田大介先生!!とか、
つらつら眺めれば思うところは多い。
 
しかし、中から1冊だけ紹介してよい、と言われれば、ミヒャエル・エンデの『鏡のなかの鏡‐迷宮‐』をおいて他にない。
 

読む迷宮『鏡のなかの鏡』

ミヒャエル・エンデといえば『モモ』、『はてしない物語』といった児童文学が有名だが、『鏡のなかの鏡』は決して児童向けではない。ふつうの小説ですらなく、まさに副題どおり、読む「迷宮」である。読者は30の不可思議な短編を読み進み、最後に自分が一つの巨大な「迷宮」をさまよっていたことに気づかされる。
あらすじを説明するのはこの本に関しては不可能かつ無意味である。論理的脈絡なく展開しつづける夜の夢のように、迷宮の一つ一つの小部屋(物語)は密かにイメージをつなげながら続いていく。
 
初めて読んだのは、高校に入学したてのころ。ファンタジーの好きな「夢見がち」な子供であった私は、まずそのイメージの不思議さ、異様さにひきつけられた。たえまなく雨の降りしきる教室。婚礼の客である炎。大理石の天使が見つめる裁判。砂漠が広がる部屋をよろめき進む花婿。人の住めない国に「パガド(魔術師)」が「肉体化」し、魚の目をした男を乗せた列車は海へたどりつき、不死身の独裁者は内乱の中、胎児となって大地にうずめられる。
 
道化師は語る。
「すべては夢。全てが夢だとおれにはわかっている。おれが存在しているという夢を見始めたときから、ずっとおれにはわかってた。この世界は現実じゃない。」(p.306)
 
王女が若い闘牛士に告げる。
「おまえは数多く変身をかさね、つぎからつぎへと姿をかえるだろう。そしてそのたびに、おまえは目覚めたと思うのだが、前のおまえの夢はもう記憶にないだろう。内から内の内へと墜ち、そうやってどんどん墜ちつづけて、いちばんの内奥に達するだろう。・・・おまえはあれになるだろう。最初の文字になるだろう。あらゆるものに先立つ沈黙になるだろう。するとおまえは、孤独とはなにかを知るだろう」(p.349)

「迷宮」に囚われる

最後の一行を読み終え、たまらず最初のページをめくったときには、私は「迷宮」の住人となっていた。夢から夢へとわたりつづけ、決してその外へ出ることができない哀れな怪物。それは、今一つ現実に溶け込めず、自意識の檻の中で空想に遊んでばかりいた私自身の姿だった。
 
中高生のころの私は「ゲンジツ」というものに疑いを持っていた。この自分を別の自分がどこか遠い宇宙の果てから動かしている、という幻想さえ抱いていた。そんなだから、『鏡のなかの鏡』が提示する迷宮世界に共鳴しすぎてしまった。全ては夢。この世界は現実じゃない、というメッセージは、強烈な毒となった。一見、ふつうの高校生活を送っているようでいて、私はいつも危なっかしく、「ファンタジー」と「ゲンジツ」の境界線をふわふわとさまよっていた。エンデの『鏡~』は、「読書」は「毒書」でありうることを、私に身をもって経験させた因縁の一冊となった。

「迷宮」からの脱出

大学1年生のとき、一念発起して『鏡~』を再読した。「迷宮」を抜け出すためには、もう一度この本とじっくり向き合わねばならない。自分なりに気づいたことなどをノートにつけながら、一話一話、読んだ。
 
『はてしない物語』でエンデが伝えたのは、私たちは「ファンタ―ジエン」、すなわち物語から、現実世界に戻らなくてはならない、ということだった。この「迷宮」からも私は帰還せねばならない。これからは、どんな物語を読もうとも、それに飲みこまれたままにならず、必ず「現実」に戻ってくるのだ。……大抵の人がしなくていい決意をもって、私は「迷宮」からの脱出を果たした。

原書、英語版、日本語版を並べる

それから20年(!)の歳月が過ぎて、2021年夏。私はついに『鏡のなかの鏡』を発見した。英語版の。原書(ドイツ語)はずっと昔、学生時代に購入していたが、なにぶんドイツ語なのでほとんど読めなかった。(第二外国語がドイツ語、という程度では……)ずっと、英語版を探していた。原書をなんとか英語に直しても、答え合わせができない……という悩みがあったのが、解消した。細々と、1話数行ずつ、ネットのGerman-English dictionaryを参照しながら(私の力ではほぼ全単語を調べることに)、英訳を試みる。そして英語版を読む。おもしろい。ほぼ合ってると得意になり、ときには日本語版の翻訳ミスらしきものも見つけるなど、本当におもしろかった。ミヒャエル・エンデによる生の言葉に少しでもふれられることは不思議な喜びだったし、英語ではこんなスマートな言い方ができたか、と感心したし、丘沢静也訳はなんて日本語が練れてるんだろう、と惚れなおした。
(それにしてもなんでこんなに並べて比較するのが好きなのだろうか。聖闘士星矢でも同じことをしていることに今気づいて愕然としている)(今気づいたんかい)
 

junaida 『EDNE』の出版

そして2022年6月。junaida氏による『EDNE』が世に出た。『鏡のなかの鏡』のオマージュ作品で、30の物語それぞれに触発された絵が収められているのだ。こんなことが令和の日本であるのか。『はてしない物語』でも、『モモ』でもなく、『鏡~』が脚光を浴びるなんて。この作品を特別愛して絵を描いてくださる有名作家さんがいるなんて。もちろん買った。秋にはjunaida展に行って、EDNEのポスターも入手した。大満足だ。
 

エンデの隠れた(人を選ぶ)名作

『鏡のなかの鏡』はエンデ作品としてはマイナーかもしれないが、何度も、何歳になっても読む価値がある。読むたびに発見があり、別の世界が広がる。
わかりやすい話では全くないが、その「わからなさ」に惹かれる人は絶対にいる。
少し変わった本が読みたい、と思う方がいらしたら、ぜひ手に取ってみてほしい。岩波現代文庫がおそらく最も入手しやすいだろう。そこにもきちんと、エンデの父・エトガー・エンデのシュルレアリスティックな絵が収められている。図書館ならハードカバーが収蔵されているかもしれない。
 
ただ、自分は物語に囚われやすい、と自覚している人は、注意深く避けた方がよい本でもある。迷宮の中で糸玉を手放してしまっても、当方は責任を負うことができない。


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